以前にもこのブログでご紹介させて頂いたことのある毎日新聞の連載コラム「診察室のワルツ」だが、最新号(2012年9月19日)に興味深いものがあったので、以下転載させて頂く。
※ ※ ※(転載開始)
<診察室のワルツ>/33 過剰治療を避けるには=岡本左和子
医療事故と過剰治療、するべき治療をしない治療不足が、医療において患者を傷つける3大要因といわれています。医学的根拠にのっとり、治療手順として認められ、治療が可能な範囲での話ですが、これらの危険性を知り、どのように治療に取り組むかは患者にも大きな課題です。中でも、過剰治療は、米国でも医療評価機関が検討課題とし、今月後半に米国医師会との合同の会議が開かれるほど注目されています。
9年前、私の友人Kさんが、卵巣がんとの闘いの末、2歳と5歳の子どもを置いて亡くなりました。医学で可能とされた治療を、ほとんどすべて受け、がんと闘う姿勢を貫きました。亡くなった時、彼女の体は前か後ろかもわからないほどやせ細っていました。私は「ここまで闘わないといけないのか」というやり切れなさと、「こんなに頑張ったのに」という無念の交じった複雑な思いで、彼女の死を受け止めました。
治療がやりすぎだったかを、誰が決めるのでしょうか。QOL(生活の質)を考えれば、Kさんの場合、「あそこまで強い抗がん剤治療を受けなくてもよかったのではないか」と言う医師や友人もいました。しかし、幼子の母だったKさんが懸命に「治る」可能性を選び通したのも当然だったと思います。QOLにかなうかどうかも誰が判断するのでしょうか。
過剰治療か、QOLにかなうかの判断は、医師をはじめとする医療者と患者のパートナーシップが負います。それを支えるのが、医療者と患者の情報共有です。診断と治療内容、QOLを考えた判断を、患者に正確に伝えようと努力をする医療者は多くいます。しかし、医療での情報共有では、医療者の患者側の思いや意見を引き出す取り組みや、患者から医療者に伝えることのほうが大切です。Kさんの場合も、治療で定められた手順だからと、次々に強い抗がん剤治療を受けたのであれば、過剰治療だったかもしれません。しかし、担当医の説明を理解して治療継続を決めたKさんの場合は、過剰治療とはいえないのではないでしょうか。患者と医療者が情報を共有する環境の構築を、両者がともに考えることが大切です。(おかもと・さわこ=医療コミュニケーション研究者)
(転載終了)※ ※ ※
2歳と5歳のお子さんを遺し、逝かなければならなかったご友人のことを思うと胸が潰れそうになる。それでも岡本さんが書かれている通り、主治医の説明を理解して強い抗がん剤治療に臨んだこの方について、私は決して過剰医療とは言えないと思う。
治療を続けていていく上で、特に抗がん剤等のキツい治療を行う上では、十分に納得して行うことが一番大切なのではないか。他でもない自分の体だから「先生にお任せします。良きに計らってください。」はあり得ない。その後の自分の生を繋ぐためにたとえキツい治療でも希望を持って受けるのか、そうはせずに緩和治療のみを行い、その後にやってくるであろう状況(死)を従容として受け入れるのか、である。もちろん二者択一でいったん決めたらもう変更しない、ではなく、その時その時の状況・環境により方向転換や微調整することも十分ありだと思う。
私が絶対に譲れないのは“自分が納得して治療を受ける”こと。そうであるならば、過剰治療や治療不足で徒に傷つくことはないのではないか、と思う。
さて、体調。昨夕は久しぶりに夕食を美味しく食べることが出来た。火曜日、水曜日は帰宅するとすぐにパジャマ姿になりたいほどよれよれの状態だったが、昨日は普段着に着替えて夕食後もベッド直行でなく、夫が買ってきてくれた甘いおやつもたいらげ、リラックスする時間が持てた。
やはり、時間を味方にしつつ1週間を過ごせば、薄紙が剥がれるように元気は戻ってくるのだと信じたい。今朝は便秘も解消し、お昼は久しぶりに大学レストランでランチを楽しむことが出来た。何となく風邪っぽく咳や鼻水が出るのは粘膜系がダメージを受けているからかもしれない。引き続き体調に留意しながら週末を送りたいと思う。
※ ※ ※(転載開始)
<診察室のワルツ>/33 過剰治療を避けるには=岡本左和子
医療事故と過剰治療、するべき治療をしない治療不足が、医療において患者を傷つける3大要因といわれています。医学的根拠にのっとり、治療手順として認められ、治療が可能な範囲での話ですが、これらの危険性を知り、どのように治療に取り組むかは患者にも大きな課題です。中でも、過剰治療は、米国でも医療評価機関が検討課題とし、今月後半に米国医師会との合同の会議が開かれるほど注目されています。
9年前、私の友人Kさんが、卵巣がんとの闘いの末、2歳と5歳の子どもを置いて亡くなりました。医学で可能とされた治療を、ほとんどすべて受け、がんと闘う姿勢を貫きました。亡くなった時、彼女の体は前か後ろかもわからないほどやせ細っていました。私は「ここまで闘わないといけないのか」というやり切れなさと、「こんなに頑張ったのに」という無念の交じった複雑な思いで、彼女の死を受け止めました。
治療がやりすぎだったかを、誰が決めるのでしょうか。QOL(生活の質)を考えれば、Kさんの場合、「あそこまで強い抗がん剤治療を受けなくてもよかったのではないか」と言う医師や友人もいました。しかし、幼子の母だったKさんが懸命に「治る」可能性を選び通したのも当然だったと思います。QOLにかなうかどうかも誰が判断するのでしょうか。
過剰治療か、QOLにかなうかの判断は、医師をはじめとする医療者と患者のパートナーシップが負います。それを支えるのが、医療者と患者の情報共有です。診断と治療内容、QOLを考えた判断を、患者に正確に伝えようと努力をする医療者は多くいます。しかし、医療での情報共有では、医療者の患者側の思いや意見を引き出す取り組みや、患者から医療者に伝えることのほうが大切です。Kさんの場合も、治療で定められた手順だからと、次々に強い抗がん剤治療を受けたのであれば、過剰治療だったかもしれません。しかし、担当医の説明を理解して治療継続を決めたKさんの場合は、過剰治療とはいえないのではないでしょうか。患者と医療者が情報を共有する環境の構築を、両者がともに考えることが大切です。(おかもと・さわこ=医療コミュニケーション研究者)
(転載終了)※ ※ ※
2歳と5歳のお子さんを遺し、逝かなければならなかったご友人のことを思うと胸が潰れそうになる。それでも岡本さんが書かれている通り、主治医の説明を理解して強い抗がん剤治療に臨んだこの方について、私は決して過剰医療とは言えないと思う。
治療を続けていていく上で、特に抗がん剤等のキツい治療を行う上では、十分に納得して行うことが一番大切なのではないか。他でもない自分の体だから「先生にお任せします。良きに計らってください。」はあり得ない。その後の自分の生を繋ぐためにたとえキツい治療でも希望を持って受けるのか、そうはせずに緩和治療のみを行い、その後にやってくるであろう状況(死)を従容として受け入れるのか、である。もちろん二者択一でいったん決めたらもう変更しない、ではなく、その時その時の状況・環境により方向転換や微調整することも十分ありだと思う。
私が絶対に譲れないのは“自分が納得して治療を受ける”こと。そうであるならば、過剰治療や治療不足で徒に傷つくことはないのではないか、と思う。
さて、体調。昨夕は久しぶりに夕食を美味しく食べることが出来た。火曜日、水曜日は帰宅するとすぐにパジャマ姿になりたいほどよれよれの状態だったが、昨日は普段着に着替えて夕食後もベッド直行でなく、夫が買ってきてくれた甘いおやつもたいらげ、リラックスする時間が持てた。
やはり、時間を味方にしつつ1週間を過ごせば、薄紙が剥がれるように元気は戻ってくるのだと信じたい。今朝は便秘も解消し、お昼は久しぶりに大学レストランでランチを楽しむことが出来た。何となく風邪っぽく咳や鼻水が出るのは粘膜系がダメージを受けているからかもしれない。引き続き体調に留意しながら週末を送りたいと思う。