夫の職場の方が亡くなった。享年56歳。肺がんだったそうだ。奥様もお子様もいる一家の大黒柱が、50代半ばの働き盛りで亡くなるということ、しかも無治療という選択をされたということに、唸った。
さすがに亡くなる迄の最期の1年間は休職されていたそうだ。
1日60本というヘビースモーカーだったという。かつて、我が夫も喫煙者だったから(おかげさまで禁煙から丸3年が過ぎようとしている。何を食べても美味しいようで、チョイ太にはなったけれど、何よりだと思っている。)、その方とは喫煙場所でよく顔を合わせたそうだけれど、まあ1日60本というと、仮に1日16時間を活動時間として、1時間に4本弱。単純に割っても15分に1本の割合になるから、殆どいつ行ってもそこにおられるということだったらしい(そんなに席を外していて果たして仕事になるのだろうか?と非禁煙者の私は不思議に思う。)。
そして、病気が分かってからも禁煙どころか、減らす事すらしなかったという。積極治療をしなかったのも、“自然に任せる”というその人の哲学であったそうだ。
ここまで徹底していれば、非喫煙者の私としては、天晴れ・・・としか言いようがないけれど、遺されたご家族の心中やいかに、と思うと言葉が、ない。
明らかに辛い症状が出ているわけではなく抗がん剤治療を行うと、副作用で却って体調が悪くなるように感じる時がある。そうした辛い治療を長く続けていると、ああ、次回は治療を休んでしまいたい、もう止めてしまいたい、と思うことがある(実際、軟弱な私は、毎回のようにそう思った。)。
“知らぬが仏”で、最初の治療はなんとかガッツでやり過ごせても、2度目以降になるとそうはいかない。程度の差こそあれ、抗がん剤治療の副作用は似たり寄ったり。ああ、また、あの身の置き所のないような倦怠感、吐き気、便秘や下痢、爪や皮膚のトラブル、はたまた極めつけの脱毛か・・・と気持ちが萎えていくのも確かである。
一般的には、一番奏功するのは最初に投与する抗がん剤だという(最初に死滅することのなかったがん細胞は回を追うごとに強くしぶとく変化していくし、身体自体が抗がん剤そのものに耐性を持ってくるというのは主治医も認めるところだ。)。
初発治療なら完治を目指して徹底的に叩く。けれど、こと、私のような再発・進行がん患者になってしまえば、目指すところは完治ではなく、なるべくQOLを落とさずに、少しでも長く延命するということが治療の主目的になる。だから、あくまで身体と相談しながら、角を矯めて牛を殺すことのないように、身体を痛めつけ過ぎないように減薬したり休薬をしたり、ということが必要になってくるのだ。
が、この減薬や休薬も曲者だろうと思う。
長く治療を続けていれば、自分の身体の中の様子はなんとなく分かるようになって来る。今だったら少しの間休んでもいいのか、今だけは我慢してでも踏ん張った方が良いのか、ということだ。
もちろん、必要以上にCT検査やMRI検査等をする必要は(特に再発治療中、症状が出ずに安定している場合)ないだろうけれど、明らかに自覚症状が続いている状態で、それを放置しておくのは絶対に良くないことだろうと思う。取り返しがつかないことになっても、泣くに泣けないからだ。
そして、それが分かっていて敢えてそうするならば、その結果も全て自分で負う、病の進行ひいては命にかかわる事態になっても、それを受け容れるということだと思う。
それが出来るなら、そして、その厳しい未来が予測出来てもなお、今、自分がやりたいことをやる方が自分にとって大事なことだと言えるのであれば-遺していかなければならない大切な人たちのことを想ってもなお、そうすることで決して後悔しないと言い切れるならば-、それはその方としての筋の通った生き方なのだと思う。
さすがに亡くなる迄の最期の1年間は休職されていたそうだ。
1日60本というヘビースモーカーだったという。かつて、我が夫も喫煙者だったから(おかげさまで禁煙から丸3年が過ぎようとしている。何を食べても美味しいようで、チョイ太にはなったけれど、何よりだと思っている。)、その方とは喫煙場所でよく顔を合わせたそうだけれど、まあ1日60本というと、仮に1日16時間を活動時間として、1時間に4本弱。単純に割っても15分に1本の割合になるから、殆どいつ行ってもそこにおられるということだったらしい(そんなに席を外していて果たして仕事になるのだろうか?と非禁煙者の私は不思議に思う。)。
そして、病気が分かってからも禁煙どころか、減らす事すらしなかったという。積極治療をしなかったのも、“自然に任せる”というその人の哲学であったそうだ。
ここまで徹底していれば、非喫煙者の私としては、天晴れ・・・としか言いようがないけれど、遺されたご家族の心中やいかに、と思うと言葉が、ない。
明らかに辛い症状が出ているわけではなく抗がん剤治療を行うと、副作用で却って体調が悪くなるように感じる時がある。そうした辛い治療を長く続けていると、ああ、次回は治療を休んでしまいたい、もう止めてしまいたい、と思うことがある(実際、軟弱な私は、毎回のようにそう思った。)。
“知らぬが仏”で、最初の治療はなんとかガッツでやり過ごせても、2度目以降になるとそうはいかない。程度の差こそあれ、抗がん剤治療の副作用は似たり寄ったり。ああ、また、あの身の置き所のないような倦怠感、吐き気、便秘や下痢、爪や皮膚のトラブル、はたまた極めつけの脱毛か・・・と気持ちが萎えていくのも確かである。
一般的には、一番奏功するのは最初に投与する抗がん剤だという(最初に死滅することのなかったがん細胞は回を追うごとに強くしぶとく変化していくし、身体自体が抗がん剤そのものに耐性を持ってくるというのは主治医も認めるところだ。)。
初発治療なら完治を目指して徹底的に叩く。けれど、こと、私のような再発・進行がん患者になってしまえば、目指すところは完治ではなく、なるべくQOLを落とさずに、少しでも長く延命するということが治療の主目的になる。だから、あくまで身体と相談しながら、角を矯めて牛を殺すことのないように、身体を痛めつけ過ぎないように減薬したり休薬をしたり、ということが必要になってくるのだ。
が、この減薬や休薬も曲者だろうと思う。
長く治療を続けていれば、自分の身体の中の様子はなんとなく分かるようになって来る。今だったら少しの間休んでもいいのか、今だけは我慢してでも踏ん張った方が良いのか、ということだ。
もちろん、必要以上にCT検査やMRI検査等をする必要は(特に再発治療中、症状が出ずに安定している場合)ないだろうけれど、明らかに自覚症状が続いている状態で、それを放置しておくのは絶対に良くないことだろうと思う。取り返しがつかないことになっても、泣くに泣けないからだ。
そして、それが分かっていて敢えてそうするならば、その結果も全て自分で負う、病の進行ひいては命にかかわる事態になっても、それを受け容れるということだと思う。
それが出来るなら、そして、その厳しい未来が予測出来てもなお、今、自分がやりたいことをやる方が自分にとって大事なことだと言えるのであれば-遺していかなければならない大切な人たちのことを想ってもなお、そうすることで決して後悔しないと言い切れるならば-、それはその方としての筋の通った生き方なのだと思う。