ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2017.12.5 どこまで知ったら、どこまで出来たら幸せか

2017-12-05 21:24:00 | 日記
 何回かご紹介させて頂いている毎日新聞連載中の香山リカさんのコラム。今回もさもありなん、と思ったので下記に転載させて頂く。

※   ※   ※(転載開始)

香山リカのココロの万華鏡  遺伝子情報知りたいか( 毎日新聞2017年12月5日東京版)

 デザインを研究する学生が学ぶ大学院で、「人間はデザインできるか」という講義をした。遺伝子工学がすさまじいスピードで発展する中、この先、生まれてくる赤ちゃんの性質や特徴を選んだり変えたりする技術ができるかもしれない。もしそうなった場合、私たちはどのくらい生まれてくる命を“デザイン”してよいのか。そういう話をした。
 「赤ちゃんの遺伝子を解析したら、将来、がんや難病になる確率が高いと分かった。それを受精卵の段階で手直しできるとなったら、そうしますか」
 そう質問すると、多くの学生が「それはやったほうがいい」と答える。「子どもの将来の病気が防げるとしたら、そうしてあげるのは親の責任でしょう」と言う学生もいた。「では、あと一歩進んで、遺伝子を操作すれば、運動が得意とか目がぱっちり二重の赤ちゃんになりますよ、と言われたら?」
 この質問には、今度はほとんどが「それはやりすぎ」と言う。「本人がそれを望んでいるかどうかも分からないのに勝手にやるのは親のエゴ」「それが子どもの幸せになるとは限らない」などいろいろな意見が出た。
 しかし、この二つの問いに決定的な違いはあるのだろうか。「子どもが少しでも幸せな人生を歩めるように」という気持ちで、生まれてくる前に遺伝子を操作する、という点においては同じことなのではないだろうか。学生たちと議論するうちに、だんだん私も分からなくなってきた。
 学生の中には「こういうやっかいな問題が生じるから、遺伝子の情報は一切知りたくない」という声もあった。とはいえ、いま実際に「あなたの遺伝子を解析します」というサービスは始まっており、何年か後には、自分の血液型と同じように自分の遺伝子情報を誰もが知っている、という時代が来ることも予測されている。おなかにいる赤ちゃんに染色体異常がないかは、母体の血液検査だけでかなり分かるようにもなってきている。
 精神科の診察室には、自分あるいは赤ちゃんの遺伝子や染色体の情報を知ったために、さまざまな悩みや迷いが生まれ、心が傷ついた人たちもときどきやって来る。遺伝子が教えてくれることはあまりに多く、ほとんどの人はそれを受けとめるほど心が強くない、というのが私の考えだ。あなたは「病気になりやすさや自分の才能の有無が分かる遺伝子情報、すべてお見せしましょう」と言われたら、それを望むだろうか。(精神科医)

(転載終了)※   ※   ※

 先日、「神様のカルテ0」を読んだと書いた。
 そこでは“人は、神様が書いたカルテをそれぞれ持っている。それを書き換えることは、人間にはできない”-つまり、日進月歩の医療界で、医者は日々患者のために奮闘努力しているけれど、結局のところ、神様が書いたカルテ(不可侵なもの)をなぞっているに過ぎない。言い方を変えればやはり医療はある意味無力といわざるを得ない-というとても腑に落ちるものだった。

 なるほど、悠久の宇宙の歴史の中で、一人の人間の生涯などごくごくちっぽけなものに過ぎない。日々あれもこれもとジタバタしている、神様から見れば塵のような吹けば飛ぶような小さな自分(“蜘蛛の糸”を思い出してしまった。)。そんな自分を思うと、なんだか愛おしくなる。人智の及ばないことはいくらでもある。だからこそ人生は一回限りでエキサイティングなのだ、と思う。

 そして、既に神様は私のカルテを書いておられるのだから、どうあがこうが、どうわめこうが、越し方行く末全てが「そういうふうになっている(いた)。」のだとも思う。
 結局のところ、遺伝子情報を操作するということは、“生きている”というあまりに不確かで奇跡的なことに対する畏れのようなものまで侵して何でも思い通りにする、ということではないか。
 生まれてくる命の何たるかを全て知ることが出来る、ひいてはデザインまで出来る段階になったら、本当に人は幸せでいられるのだろうか。
 今の私の答えは“否”である。

 その人その人の遺伝子に適したプレシジョン・メディシンが遠い未来の夢の話ではなくなってきているのも事実だ。実際、私自身13年近く前の初発の術後病理検査でHER2強陽性というがん細胞の情報が得られず、ハーセプチンという薬を使うことが出来ないでいたら、今頃とっくに空の上、であったに違いない。その恩恵でここまで命を繋げたことには十分感謝している。

 この後私が子どもを持つことはあり得ないけれど、もし息子がその子どもの遺伝子を操作してその子が罹るであろう病気を避けてやりたい、才能を伸ばしてやりたいと言ったらどうだろう。万一生き永ら得ていたら止められるだろうか。

 全ての遺伝子情報が解明され、操作出来るようになってしまったら、みんなちがってみんないい、世界にひとつだけの花・・・というわけにはいかなくなるだろう。
 病気にもならない、才能に溢れた沢山の人たちだけがいる世界。

 やはり私は全て知りたいとは思わない。操作したいとも思わない。そうした世界はあまりに空恐ろしいと感じてしまうのだが・・・。

 さて、あっという間に学内の紅葉も終盤戦。朝に夕に、そこかしこにこんもり積もった濡れた落ち葉に足をとられないようへっぴり腰で歩いている。陽射しを浴びたドウダンツツジの燃えるような赤はまだまだ美しい。

 今日は担当している学生たちの卒業研究の発表会。これが終われば年内の大きなイベントは終了だ。
 4週間後には新しい年がやってきている、というのがまだピンと来ない師走の夜である。
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