ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2012.10.21 EC2回目投与10日後、4回目の校友音楽祭無事終了

2012-10-21 21:39:27 | 合唱
 昨夕は夕食前にマッサージをしてもらい、心も体もすっかりふにゃふにゃになって夕食を済ませ、さっさと入浴して早めにベッドに入った。

 そして今朝。抜けるような青空のいいお天気になった。昨日は夜更かししていた2人が爆睡中で、10時の集合に行くのは端から諦める。
 友人たちから今日の応援メールが入る。気にかけて頂いていることが何より有難い。

 遅めにバイキングの朝食をしっかり頂き、11時のチェックアウトまで部屋で楽譜を見たりしてのんびり過ごすことが出来た。
 今回のホテルには3年連続泊まっているが、毎年私だけ一人先に出かけていたので、3人で都電の駅まで歩くのは初めて。オープニング・セレモニーの集合時間に十分間に合う時間に控室に入り、皆さんと合流することが出来た。

 舞台の立ち位置を決めるステリハにも参加出来ず、声出しもしないまま、正午のオープニング・セレモニーへ。いつもは講堂の中でリハーサルがあるのだが、今回は本番と同じ講堂前の階段で、他の2合唱団とともに、グリークラブのOBの指揮者の指揮で一回歌ったら、そのまま本番へ突入した。式典は、いつものように校友の男女ペアのアナウンサーにより司会進行。
 今年も夫と息子が一番前の列にしっかり陣取ってくれていて、照れくさい。容赦なく照りつける陽射しが強く、クラクラしてくる。

 無事歌い終わり、その場で一旦解散。次の小講堂のステージまで2時間弱の間に食事を済ませればフリータイムだ。いつもは学内を散策するのだが、今年は人いきれで酔ってしまいそうだったので、同期の友人と2人で学食で軽めにランチをした後、ガーデンハウスカフェでお茶とお喋りを愉しみながら、のんびり過ごした。

 少し早めにと思って控室に移動すると、なんと小講堂のステージが15分繰り上がったという。驚いて今日来て下さるとメールを頂いていた方たち、それと夫に15分早まる旨連絡して、小講堂へ向かった。舞台裏で待っている間、緊張からか立ちくらみがして焦ってしまった。やはり体力が回復していないのだな、と思う。私よりずっと年上の先輩方に気を遣わせてしまい、一人座らせて頂き、何とも申し訳ないことだった。

 そして本番。いつもながら本番は始まったら怒涛の如く終わってしまう。舞台に上がり、ライトが当たる。先生の顔を見ながら楽譜を開く。指揮に集中して最初の声を出す。さすがに今年は練習量が少ないので、いつもよりも緊張の度合いが高い。それでも3週間前は入院していたのだから、よく今日を迎えることが出来たな、と思う。
 ・・・僅か15分のこの舞台のために、7月初めから9月初めまで月に1、2回、ほぼ一日がかりで練習に通い、途中、入院やら体調不良やらで本当に迎えられるのだろうか、と思いながら今日の本番を迎えることが出来た。
 前泊までして、明日は模試がある息子まで2日間振り回して、何とも我儘な話だ。荷物持ちでフォローしてくれる夫、思春期にもかかわらず嫌がらずにこうして毎年付いてきて、同期や先輩たちにも挨拶をしてくれる息子。有難いと思う。

 とにかく前半の4曲を歌うことが出来た。舞台からも、夫や息子が写真を撮ってくれているのが分かる。出ない声は無理して出さずに息の流れだけ感じながら、ハーモニーの中に身をゆだねることが出来た。
 それを終えると次は4年目にして初めて立つ、思い出の大講堂でのステージ。こちらも予定より早めの進行となった。最後にイベント等の締めくくりで歌われるラストソングを5曲目に歌い、今年の舞台が終わった。
 何より今年も同期の友人、先輩や後輩とともにこの時間を過ごせたことが嬉しい。「また、来年もご一緒出来ますように。」と皆さんに挨拶をして会場を後にした。

 去年に引き続き、このブログを読んでくださっている方が今年も聴きに来てくださった。また来年もお会いしましょう、と言われ、素直に嬉しかった。
 終了後、夫と息子が「お疲れ様」と言って、可愛らしいハロウィンのフラワーアレンジメントをプレゼントしてくれた。

 こうしてまた、私にとっての大きなイベントが一つ終わった。明日からまたいつもの1週間が始まる。明日は金曜日同様、早退してグランの注射だ。
 また来年の6月まで合唱はお休みだが、今の治療がうまくいけば来年は少し体が楽になっているかもしれないことを信じて、きっとまた来ようと思う。
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2012.10.20 EC2回目投与9日後、昨日の診察と眼科初診

2012-10-20 11:45:00 | 治療日記
 昨日は予定通り夕方、病院に滑り込んだ。さすがにいつもの時間とは様子が違い、人はまばら。IDカードを通して腫瘍内科に受付すると、ほどなくして看護師さんが現れて処置室に案内された。
 検温は6度1分。肩に白血球を増やすG-CSF注射(グラン75)を打って頂く。1週間の様子を話し、何より視界の歪みと欠損について相談してみた。
 早速、主治医に連絡して頂き、ラッキーなことに診察室に案内された。
 結局、今回も投与後1週間殆ど使い物にならなかったことをご報告。投与翌々日からまるまる3日間は寝込み、4日目以降は、仕事には行ったものの帰宅後はベッド直行。殆ど食べることが出来ず、貧血気味などなど不調のオンパレード。次回からは吐気対策強化のため、デカドロン8錠を2日延長、さらにナウゼリンを朝昼晩と定期的に飲むことになった。
 そして、一番気になっていた視界のトラブルをお話しする。
 ECの副作用としては見当たらないようだし、こうした経験は初めてで、今は全く何ともないが、やはり気になる。先生も首を傾げられた。
 明日、出来れば眼科医に行ってみるように、とのことだった。眼底等は検査した方が良いらしい。結果何もなければ良いし、何かあれば紹介状を書いてもらい、次回の診察日にこちらの眼科に診てもらえることになった。

 そして、今朝。
 食欲はすっかり回復している。息子を送り出した後、洗濯機を3回回して、近所の眼科クリニックへ行ってきた。
 思えば眼科にかかるなど、結婚前に、目にゴミが入って取り除いて頂いた時以来四半世紀ぶり、あとは15年近く前にドライアイの疑いでひっかかったことがあるくらいだ。もう齢50を超えたのだから老眼だって始まっているだろうし、一度しっかり検査しておくことは決して悪いことではないだろう。

 問診票に記入して、診察室に呼ばれる。再発進行乳がんで現在化学療法中であることをお話しする。ライトで両目をチェックされた後、眼圧、眼底、視力を測定。さらに運転して来ていないことを確認された後、「瞳孔を開いて(!)目の奥を良く診ましょう。」とのこと。両目に点眼薬を差され15分ほどして再度診察室へ。両目にライトを当てて四方八方からチェックした。結果、「何も見えません。綺麗です。」とのこと。最終的に眼底カメラで両目を撮影し、「一過性のものだと思いますが、また何かあればどうぞ。」との診断。本当にほっとした。
 3,4時間ほど目がぼんやりしますということだったが、外に出るとあまりの眩しさで目が明けていられなかった。それでも心底ほっとして、家で心配していてくれた夫に連絡し、帰宅。

 これから、明日の音楽祭本番に備えて都心のホテル前泊する。
 
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2012.10.19 EC2回目投与8日後、G-CSF注射。再発抗がん剤治療を続けて行くために大切なもの

2012-10-19 20:39:55 | 治療日記
 三たび、読売新聞の医療サイトから、長文であるが、高野先生のコラムをご紹介したい。

※  ※  ※(転載開始)

がんと向き合う~腫瘍内科医・高野利実の診察室~2012年10月17日
がんを小さくするより重要なもの

 今から13年前、私が研修をしていた病院に、他の病院で治療中の乳がんの患者さんが受診されました。私が外来で対応したのですが、今から思うと、これが私にとって、最初の「セカンドオピニオン外来」でした。
Oさんは、当時59歳。49歳で乳がんと診断され、右乳房を切除する手術を受けたあと、10年近くは何事もなく過ごしていましたが、4か月前に骨転移がみつかり、放射線治療を受けている間に、肝臓にも転移がみつかりました。
 担当医は、「末期がん」と説明し、「あと何年生きられますか?」と聞いたOさんに対して、「年ではなく、月単位です。6か月ももたないかもしれない。治療しなければ1か月か2か月ですよ」と告げたそうです。
 Oさんは、どん底に突き落とされたような気持になりながら、自分が世を去った後のことを考え、自分の思い出につながるもの、たとえば、アルバム、洋服、身の回りの持ち物などを一斉に処分し、自分のお墓も用意してから、担当医の提示した抗がん剤治療に臨みました。
 行われたのは、乳がんに対して広く使われている標準的な抗がん剤治療でしたが、Oさんは、この治療で、「体が溶けるような苦しみ」を味わいます。「人が死ぬというのは、こういうことなのか」と思ったそうです。
 迫りくる「死」への恐怖と不安に、治療の苦しみが加わり、先が見えない闇の中をただもがいている感じでした。治療の意味や副作用の対処法の説明があれば、よりどころになったのかもしれませんが、それもなく、次々と起こる副作用で心も体も疲れ果てていたそうです。
 結局、この抗がん剤治療の効果は認められず、担当医から、抗がん剤を変更すると告げられました。そして、次の治療のために入院する前日になって、意を決して私の病院にやってきたのでした。
 Oさんは、思い詰めた表情で、深い悲壮感を漂わせていました。これまでの経過を一通りうかがったあとで、私は、担当医の提示した治療が、標準的なものであることを説明し始めましたが、Oさんは、いわば「パニック状態」で、私の言葉一つ一つに過敏に反応しました。「私は末期なんです」「もう1~2か月の命しかないって言われてるんですから・・・」。
 Oさんは、医療によって深い傷を負っていました。ただ、よく話をうかがってみると、がんそのものによる症状はほとんどありませんでした。私は、具体的な治療方針を説明するよりも前に、がんじがらめになったOさんの気持ちをほどく必要があると感じました。たまたまその日は、時間に余裕があったため、私は、数時間にわたってOさんとお話しました。
 私からは、必ずしも切羽詰まった状況ではないこと、治療は、がんとうまく長くつきあうために受けるものだということなどを説明し、納得できていない治療は受けなくてもよいのではないかとアドバイスしました。
 結局、Oさんは、予定されていた入院を断り、私の外来に通うことになりました。2週間後、私の外来に来た0さんは、見違えるような明るい笑顔で、身も心も軽くなったと語ってくれました。
 事実上、標準的な治療をやめさせたわけですので、腫瘍内科医として正しい行為とは言えないかもしれませんが、私は、この2週間で得られた「効果」を目の当たりにして、抗がん剤でがんを小さくする効果よりも重要なものがあることを実感しました。
 その後、Oさんは、ご主人が赴任していたブラジルに行き、自らの人生を再び歩み始めました。アルゼンチンの大平原や南極の氷河へも旅行に出かけ、その様子は、メールで頻繁に報告がありました。
 しかし、ブラジルに行ってから数か月たった頃、それまでになかった痛みが出てきて、骨転移の悪化とわかり、Oさんは急きょ帰国します。それ以後は、私の外来や入院で、痛みのコントロールなどの緩和ケアを行いました。帰国から半年の間、全身状態は少しずつ悪化していきましたが、ご家族の献身的なケアもあって、ご自宅で多くの時間を過ごされました。
 そして、「あと1~2か月の命」という言葉でどん底に突き落とされてから15か月たった秋の日、ご家族に見守られながら、安らかに息を引き取りました。
 抗がん剤治療をやめたことが、Oさんの命を長くしたのか、短くしたのかは、誰にもわかりません。でも、生きた時間の長さ以上に、その時間の意味が重要なのだということは、Oさんの笑顔が教えてくれた気がします。

(転載終了)※  ※  ※

 再発抗がん剤治療に何を求めるか、である。
 その目指すところはもはや完治ではない、少しでもQOLを保ちながら、普通の生活を出来る限り長く続けること、である。となると、今私がやっているこのきつい抗がん剤治療は何のためか、と考え込んでしまう。言わずもがなであるが、抗がん剤はがんだけを叩くのではない。正常細胞も容赦なく徹底的にやっつけてくれる。1回投与すれば、ほぼ1週間は全く使いものにならない。さらにはその翌週・翌々週にわたって白血球が下がって、発熱による緊急入院、というおまけまでついてくるかもしれない。となると、1投2休のうち元気でいられるのは一体何日なのか。

 今回のEC治療は最低4クール、出来れば6クールと言われているからこそ、何とか頑張ろう、と思うのであって、では、効いているうちはずっとやりましょう、というエンドレスの治療が提示されているとしたら・・・。情けないかもしれないが、私にはとても無理だ、と思う。軟弱かもしれないけれど、この生活がこの後延々と続いたら、普通の生活はおろか、生きる喜びはどこへやら、である。
 家族は出来るならもっと頑張ってほしい、と言うかもしれない。けれど、私はもう勘弁してほしいというのが正直なところだ。

 前回のタキソテールでも6クール。後半は殆ど廃人のようになりながら治療を終えた。けれど、そうまでしたけれど、両肺の影は薄くはなりはしても消えることはなかった。その後、ホルモン治療とハーセプチン、ゾメタだけの治療が出来たのは、ホルモン剤を変えながら粘りに粘ってみたものの、結局、僅か1年ちょっとだった。1年経たずしてマーカーはしっかり上がりだしたのだから。

 つまり、半年の休職期間プラスその後延々と続いた副作用の手足の痺れや脱毛や浮腫、手足の爪の脱落という対価を払って手にすることが出来た少し穏やかな治療生活は1年ちょっと。全く使いものにならなかった時間を引けば、正味半年にも満たない時間。

 それをもってどう思うか、は、人様々だろう。もちろんどんな状況であろうと「生きている」ということに価値を見出すならそれでもよいかもしれない。けれど、最初に抗がん剤を投与した時とは違うことが今回明らかになっている。その後、ナベルビンを1年9カ月続けたことで間違いなく私の骨髄は弱ってきているのだ。夏の間、しっかり3カ月休薬したはずなのに。この後、私の骨髄機能が一体どれだけ持つかどうかわからない。

 となれば、半年永らえるために半年以上の時間を犠牲にすることは果たしてどうか、と考え込んでしまうのだ。もちろん、初発の場合なら完全に叩けば完治するかもしれない。目的が全く違う。完治するならば頑張れる、かもしれない。

 まだ、答えは出ていない。そしてまだ答えを出す段階でもないとは思っている。けれど、頑張りすぎないで休むという選択肢を入れて行かないと、先行きはかなり厳しいと思うようになっている。

 昨夜は気持ち悪さより空腹が勝って、塾帰りの息子も待てずに、夫にあれも食べたい、これも食べたいとリクエストするほどだった。かといって、委縮してしまった胃がいきなり大量の食べ物を受け付けてくれるわけでもない。けれど、とにかく食欲が出てきたのは大きな進歩だ。
 早く寝たが、夜中に2度ほどお手洗いに起き、やはり空腹で眼が冴えてしまう。
 
 結局、今朝も1時間半ほどベッドでぐずぐずした後、目覚ましを消してからリビングへ。お弁当を作って、横にならずにそのまま食卓に付けたのも大きな進歩だ。青汁が飲めない程度の気持ち悪さは残っているけれど、それ以外はナウゼリンの助けも借りずに、しっかり朝食を摂ることが出来た。

 お昼も久しぶりに学内レストランで友人と一緒に楽しむことが出来た。見上げれば外は日差しが降り注ぎ、本当にいいお天気。気付けば、今週初めて学内を上を向いて歩いたように思う。青空と色づき始めた銀杏の黄色のコントラストが美しい。これから濃淡の赤も加わって、学内は紅葉の季節になる。来月頭の大学祭の頃が一番のシーズンだ。が、その頃は残念ながら予定通りに行けば第3回の投与とバッティングする。

 午後は2時間早退して、病院へ急いだ。
 外来の受付時間ぎりぎりに入れば、化学療法室でG-CSF(グラン)の注射だけしてもらえる。注射1本のために病院往復3時間はきついと言えばきついが、いきなり別の病院に飛び込むわけにもいかない。この後また発熱して緊急入院などということになったら目も当てられない。とにかく出来る対策は、全てする。明日からは抗生剤クラビットの服用も開始だ。
 
 残っていた前髪を触ると、またひょろひょろと抜け出した。2回の投与でいよいよマルコメか。今のところ爪の変色や脱落はないけれど、手指がどす黒く色素沈着してきた。自慢の白魚の指だったのに(すみません。ちょっと言ってみたかっただけです・・・。)

 そして目下の目標は、明後日日曜日の校友会音楽祭の本番ステージに乗ることだ。
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2012.10.18 EC2回目投与7日後、結局は人を人として敬えること

2012-10-18 19:22:29 | 日記
 またも転載記事で恐縮だが、以前もご紹介した毎日新聞の医療サイトからなるほど、と思った記事があったので、以下転載させて頂く。

※  ※  ※(転載開始)

<診察室のワルツ>/35 個人情報保護法への誤解=岡本左和子(2012年10月17日(水)13:00)

 山中伸弥さんのノーベル賞受賞決定という、小躍りするようなニュースが飛び込んできました。心よりお祝いを申し上げます。記者会見で、夫婦円満の秘訣(ひけつ)は、「相手を別の人格と認識し、尊重すること」と話していました。それは、このコラムでも述べてきた患者と医療者の関係に通じます。
 相手を尊重する一つの方法として個人情報保護法があります。講演やセミナーで訪れた病院で、最近よく耳にする話があります。患者さんの知人から、「Aさんが入院されているはずだが、仕事のことでどうしても連絡がとりたいので、何号室か教えてほしい」という問い合わせの電話が入り、それに対して、「個人情報保護法があり、それはお伝えできません」と答えると、電話の相手に大変怒られる、というのです。読者の皆さんはどう思われますか。「困っているのだから、教えてもいいのではないか」または「個人の情報を勝手に教えることはだめだ」と考えた方は多いでしょう。正解は「本人に確認してみる」です。
 「連絡がつかないと仕事で困る」と窮地を訴えている人に、個人情報保護法について説明をしても対話が成立しません。連絡を付けたい人は、「気が利かない病院だ」と思い、電話を取った人は、「無理難題を言う人だ」と思うでしょう。ここに、病院側の「法や条例を順守しているから大丈夫」という気持ちの落とし穴があります。この個人情報保護法は、「本人の了解を得ずに勝手にその人の情報を漏らしてはいけない」ということが基本目的ですから、ご本人が了解すれば、連絡先を教えても問題ありません。
 私の父が入院中、その病院の廊下で、知人Bさんと偶然に出会いました。その日の夕方、担当の看護師から「Bさんが、差し支えなければお見舞いをさせていただきたいと申されています」との話がありました。父は喜びましたし、家族は感謝をしました。
 忙殺される病院の仕事中ですが、個人情報保護法を盾に取るのではなく、ちょっとした医療者の気遣いが、患者には励みや喜びに変わります。患者や家族も担当の医療者に「自分に確認してほしい」と伝えておくといいでしょう。(おかもと・さわこ=医療コミュニケーション研究者)

(転載終了)※  ※  ※

 個人情報云々はさておき、結局のところ、患者と医療者との関係だけにあらず、全てにおいて人間関係は相手を人として敬うことが出来ればよいのだ、と思う。夫婦だって親子だって所詮別の人格、別の人間だ。だからこそ「相手の人格を認識し、尊重する」という山中先生の奥様の言葉は、夫婦円満どころか人間関係の全てを包含していると思う。山中先生も素晴らしいけれど、女性の目から見ても奥様もとても魅力的だ。

 23年近く前の結婚式で、いみじくも夫が言ってくれたことを今も時々思い出す。「これから新しい生活をしていく上で、気をつけたいことは?」という質問に対して、「2人とも仕事を持っていますから、お互いを尊重してやっていきたいと思います。」と。
 言葉の通り、これまで夫のサポートを得て好きなだけ仕事を続けてくることが出来た(まあ、こんなじゃじゃ馬、どうせ辞めろと言ったって俺の言うこと等聞くはずはない、と承知の上だったのだろうけれど・・・。)。
 どんな場面でも思いやりを持って相手を尊重して生きる、これこそ人生をより楽しく送れる極意だと思う。

 昨日もまた夫が夕食を作ってくれた。およそ1週間ぶりに空腹を感じ、出されたものを美味しいと思って半分ほど食べることが出来た。夫も喜んでくれて、本当に嬉しい。とはいえ、食べている絶対量は圧倒的に少ないからか夜中に胃が痛くて目が覚め、胃薬を飲む。

 今朝も朝食とお弁当の用意をした後、またもや貧血気味になってリビングで横になったし、気持ち悪さは依然として残っている。
 午後からの会議の準備も無事こなしたが、お昼前にちょっとショックなことがあった。パソコンを見ていたら、突然、左上方の視野が歪んで見えなくなったのだ。目が疲れたのか、と驚いてこすってみたりパチパチしてみたが、なかなか治らない。お手洗に行って、鏡を見る。やはり顔の左側が欠けて見えるではないか。左目を隠して右目だけにすると何ともない。それなのに、右目を隠して左目だけにすると、顔の一部が歪んで欠けている。目の前が真っ暗になった。入院中に脳の造影CT撮影で「異常なし」と言われたばかりなのに。そうこうしているうち30分くらいで元に戻った。全身の力が抜けるほど怖い出来事だった。

 昼食も、ナウゼリンを飲んでから食べたいものを食べることが出来た。頭痛が気になったので、ロキソニンも飲んで午後の会議に出席した。

 とにかく明日はようやく金曜日。夕方にはG-CSFの注射を打ちにいかなければならない。そろそろ白血球が下がってくる頃だから、頭痛も出てきているのかもしれない。前回はこのタイミングで微熱が出たのだった。今日も早く休もうと思う。
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1012.10.17 EC2回目投与6日後、少しずつ浮上?

2012-10-17 19:25:19 | 日記
 昨日も早く休んだ。帰宅しても新聞もテレビも何も見られない。ただ横になるだけ。QOLなどどこかに行ってしまった感がある。
 ただひたすらずっと寝ているのに、体は相変わらず泥のように重い。ベッドにめり込んでいく感じだ。

 今朝は目覚ましに頼らず起きることが出来、朝食とお弁当の用意。とりあえずその2つだけやり終えると、がっくり顎が出て、またリビングで横になり小休止する始末。
 2人が出かけてからマイペースで朝食をとる。またナウゼリンの力を借りる。いつもの半分くらいは口に出来るようになってきたか。空腹ではあるけれど、食欲はない状態が続いている。

 仕事の方は、昨日に比べれば、少し細かい仕事が出来るようになってきたように思う。
 いずれにしても、隣の女性の甲高い笑い声やら、近くの男性の体臭などに異常なほど過敏に反応して、苛立ち、滅入り、吐き気が襲う。普段ならなんのことなくやり過ごせることなのに・・・。

 割り引いて考えてみても、本当にパワーダウンだ。
 先日主治医が仰ったとおり、「今週は休みましょう。退院後1週間で、体調が戻っていないのに無理に投与すると使いものにならなくならないですか。」の言葉がリフレインする。やはり無理をしたということだろうか。
 けれど、投与を先延ばししたところで、この治療から逃れられるわけでなし、ただ終点が伸びるだけ。それならあえて繁忙期に体調不良を先延ばしにする意味はないのでは、と思ったのだけれど。しかも間を開ければ開けるほど、初回の投与が無駄になってしまう可能性だってある。

 帰宅すると、今回のお花が届いていた。水切りをして、投げ入れをした。そして同時並行で洗濯機も回した。
 大輪の赤いカーネーション3本と、小ぶりなスプレーカーネーションが淡いピンクとクリーム1本ずつ、黄色いオンシジューム2本、ロベヤシが2本。それぞれの花言葉は「女の愛」、「清楚」、「勝利」だという。
 こうしていきなりベッドに直行しないで、別のことが出来るようになってきた、というのは浮上してきた証拠だろう。


お読み頂いている皆様へ

 前回の投与後同様、ヘタレで後ろ向きな日記が続くばかりで本当に心苦しい限りです。

 けれど、今、私と同じように辛い思いで治療を続けていらっしゃる方や、それを一生懸命支えるご家族の方々、応援してくださっている方々と、一緒に乗り切っていきたい、という思いを込めて、このまま素直な気持ちと情けなくも恥ずかしい事実をそのままに書き続けたいと思っています。
 お付き合い頂けるならとても嬉しいです。
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