2015年8月1日(土)
「飲んだり食べたり」「歌ったり踊ったり」
このぐらいの長さ(短さ)なら、当たり前にできるし、誰でもやっている。 「~たり、~たり」で、「たり」は必ず繰り返さねばならないというルールのことである。
ただ、「~」の部分が長くなるにつれ、ルールを守りきれなくなって逸脱する例が増えてくる。「うつ病では気持ちが沈んでやる気が出なくなったり、夜も眠れなくなります。」むろん「夜も眠れなくなったりします」が(本当は)正しい。このあたりを境目に、長文になるほどこのルールは無視される傾向があり、「ある程度以上の長さでは反復不要」という暗黙の了解が主張されているようでもある。
学生さんの原稿を手直していて思うのだが、この単純な「たり/たり」ルールを守るには、実は結構な力が要る。語彙や言い回しの素材を豊富にもっていないと、やりくりが難しい。『大地』の訳者は力量はあり余っているだろうが、この件にあまり注意を払っていないように思われる。
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重箱の隅ばっかりつついてるわけではない。僕はどちらかといえば短編小説 conte が好きなのだけれど、長編小説 roman ならではの魅力を解しないわけではない。以前、読み止めてしまったあたりを過ぎ、第3巻も半ばに達して鳥肌の立つような思いをした。
そう言いながら、老人は横手にある扉を押した。薄暗い小さな部屋が淵の眼に落ちる。窓といえば四角な穴があいているだけで、それに白い紙がはってある。静かな、何もない部屋だ。
しかし、この薄暗い、土の壁で囲まれた部屋の真ん中に立ったとき、淵はなんとはなしに頑丈な昔ながらの生命がそこにあふれているような、奇妙な感覚に打たれた。彼は不思議そうにあたりを見まわした。それは彼が初めて見た質素きわまる部屋だった。麻の帳の垂れている寝台、粗末な白木の机と腰掛けがあるだけで、下は土間である。多くの足が踏み固めたのだろう、扉と寝台のそばだけはくぼんでいる。
そこには誰もいない。彼一人だけなのに、彼は霊的存在を近くに感じた。彼の知らない、すこやかな、大地の霊なのだ。やがて、それは消えた。急に彼はその生命を感じなくなって、孤独の中に取残された。
(第3巻 P.208-9)
説明はいっさい不要、読者は必然的に物語の冒頭へ引き戻されることになる。そもそもの初め、王一族誕生の場である。
寝台を囲む暗いとばりの中で眼を覚ましたとき、彼は、なぜ今朝がいつもの朝と違う気持なのか、最初、考えつかなかった。家の中は静かで、中の間をへだてた老父の部屋で、力のない、しゃがれた咳がするばかりだった。王龍は、ふだんならそれを聞きながらも寝台から下りずにいて、咳がだんだん近づいてくるとか、老父の部屋の扉の木の蝶番がきしむとかしたときに、ようやく体を動かしたのだった。
しかし、今朝はそれまで待っていなかった。彼ははね起きて、とばりをあけた。まだ暗いしらじら明けで、四角に切って窓がわりにしている穴に張った紙が、破けて、ひらひらしている所から、青銅色の空がかいま見えた。彼は穴の所へ行き、その紙をむしりとりながら、つぶやいた。
「春だから、こんなものいらねえや」
(第1巻 P.7)
土を愛し、土に生い出でた王龍だが、その三人の息子は土に対する愛をまったく受け継がない。ただ王龍の無骨な優しさと正義感は三男の王虎に伝わっている。そうであるからこそ、王虎は兄たちと違って父と衝突し、彼だけが父祖の地を遠く離れて暮らすことになる。その王虎が彼一代で築いた軍閥を一人息子に譲ろうとしたとき、この息子が真っ向から父に逆らって立つ。軍閥と国民軍と(=父と大義と)どちらをとるかという葛藤は、やがて戦のことを捨て帰農する道へと王淵を導く。王龍の土への愛が、王虎というスプリングボードを介して王淵のうちに復活するのだ。
祖父・王龍の寝室へ、それと知らずに孫・王淵が歩みいる。それが第一の場面である。「窓がわりの四角い穴」とそこに張られた「白い紙」、そして寝台 ~ 王龍が妻を迎え、子供らが生まれ、王龍夫妻が息をひきとり、梨花が起臥した、その同じ寝台 ~ 何と見事な道具立てだろうか。そして王龍・王虎・王淵、三代の弁証法の何と力強く劇的なことか。さらに女たちだ。王淵が祖母・阿蘭に似ていることに、父であり息子である王虎は気づいている。王虎と王淵の強固な意志とたゆみない行動力は、阿蘭から出たものに違いない。王虎の二人の妻の一人は淵に命を与え、今一人は教育と感化を与える。代を重ねて歴史が紡ぎ出される。
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