散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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欅と槻、クスノキに竹林

2015-08-19 22:29:33 | 日記

2015年8月19日(水)

 これも帰省中、どこかで「槻」の字を「けやき」と読ませる地名を見た。「箒を逆さに立てたような」と表現されるケヤキの枝ぶり、その潔い直線性を考えれば「槻」の字はなるほど腑に落ちる。漢和辞典を確かめると、古くはケヤキを指して「槻(ツキ)」と呼んだようだ。

 一つ覚えの持論だが、ケヤキは仙台を筆頭に東日本のものが断然良い。いっぽう、西日本を象徴するのはクスノキである。無理やり街路樹に仕立てられてモヤシみたいになったクスノキが放送大学界隈にもあるが、あれは可哀そうというものだ。竹は関西から中国方面に似合うように思っていたが、富士市の標識にはかぐや姫が記され、富士山麓にも良い竹林はあるのだと主張しているようである。

 なお、富士市に伝わるかぐや姫伝説は、一般的なそれとは「少し違う」と同市の web site にあり。転記しておく。「火の神アサマ」や「愛鷹・犬飼」など、ここにも日本の古層がある。

⇒ 富士山信仰のおこりは、富士山の持つ神秘的な威容と大きな関わりがあります。奈良・平安時代にかけて富士山の火山活動が活発化すると、これをおさめようと荒ぶる火の神アサマの神を鎮座し祭祀者をおく祀堂を建てるようになっていきました。これが古代、富士山周辺に浅間神社が祀られるようになった契機です。そして、中世にはさらに神仏習合思想の影響を受けながら、富士山自体が修験道による山岳修行の聖地となっていきました。
 富士市に伝わるかぐや姫の物語では、かぐや姫は最後に月に帰ってしまうのではなく、富士山に登って忽然と消えてしまうことになっており、姫は富士山そのものの祭神とされています。この物語のもとになっている話は、中世の富士山縁起(富士山及び富士山信仰にかかわった寺社に関する由来や伝説などを記した縁起書の総称)です。かぐや姫を育てた竹取の翁と嫗夫妻は、それぞれ鷹と犬をかわいがり、愛鷹と犬飼と呼ばれる祭神となったとされています。
(http://www.city.fuji.shizuoka.jp/kyouiku/c0403/fmervo0000011mgn.html)

***

 竹林といえば、そのライバルシップで一時代を画した林海峰名誉天元と大竹英雄名誉碁聖が、8月7日に特別対局を行ったはずである。どんな碁になったのかな。

 囲碁新聞に載った二人の写真がとても良いので、掲げておく。若竹であった二人が大樹になった。どちらかといえば大竹がケヤキ、林がクスノキだろうか。何しろ、こんな心もちで碁は打ちたいものだ。

    

 

 


ペーロン祭と能面と茨木童子

2015-08-19 16:59:12 | 日記

2015年8月19日(水)

 車で帰省する際の楽しみに、県境・市境に建てられた標識を眺めて行くというのがある。土地の言われや名物を絵や図案で描きこんであり、けっこう楽しいのだ。次の機会には、順に写真に撮っていったら面白いだろう。(と思ったら、少なくとも東海道に関しては先行サイトあり。「Todo sobre los sinos municipales ~ アバウト・カントリーサイン http://ameblo.jp/por-la-manya-na/)

  何が描かれているか大概は見当がつき、こういうものは年長者が風を吹かす出番だから、高槻市に入れば高山右近、赤穂市にさしかかれば『忠臣蔵』についてウンチクを垂れる。思いやり深い息子たちは「へええ」と感心して聞いてくれるが、すぐ抜けるから1年後にはまた同じ話をするわけで、こちらの役割も当分終わらない。

 けれども中には、見当のつかないものもあるんだね。帰京後に調べて初めて知ったものを、3つ記載しておく。

① 兵庫県相生市 ~ 「ペーロン祭」

 ペーロンの語源は「白龍」か、異説もあるがいずれ中国語起源であるのは間違いない。長崎のペーロン競争(下記)はよく知られている。これがなぜか相生市の標識に描かれているのだ。

「我が国へは1655年に伝来したといわれています。その当時数隻の中国船が長崎港を訪れた際、強風のため出航できなくなったので、海神を慰めて風波を鎮めるためにこの「ペーロン」競漕を港内で行いました。
 これを長崎の人達がとりいれて競漕を行うようになり、同地の年中行事の一つとなって今日に及んでいます。」(http://www.city.aioi.lg.jp/site/pe-ron/peronrekishi.html)

 そのペーロン祭がが何で相生市にあるかというと、これは長崎県出身の播磨造船所従業員が伝えたんだそうだ。以下、上記の web site 「相生ペーロンの歴史と由来」に詳しい解説があるので、そちらに譲る。何しろ納得。

    

(http://www.city.aioi.lg.jp/soshiki/chiikishinko/2015picturecontest.html)

 

② 愛知県新城(しんしろ)市 ~ 能面と鼓

 これは上記の先行サイトが詳しく取り上げているので、敬意を表しつつ引用させていただく。

 カントリーサインで追う東海道その10 愛知県新城市~豊川市: 富永神社の祭礼能(http://ameblo.jp/por-la-manya-na/entry-11185681976.html)
 図は能面「小面」と鼓です。新城市には様々な祭りがあり、無形文化財に指定されているものも数多くありますが、その1つに富永神社の能があります。この能の最大の特徴はプロだけが行うのではなく、アマチュアの市民も舞台に立っているということです。
 この祭礼能は、長篠の戦で活躍した奥平昌信が新城城の落成にあたって祝能を行わせたことに由来します。以来、この地では能が盛んになり、1736年に当時の領主であった菅沼定用の家督を祝い能を奉納してから毎年祭礼が行われるようになります。

 しかし、なぜ新城市は能を前面に推しているのでしょうか。私は「世界新城サミット」が関係しているのではないかと思います。「世界新城サミット」とは「新城」の名を持つ世界の市町村が文化交流などについて話し合うサミットの事です。このサミットで話し合うにあたって、最も日本の芸能らしいものを推そうとしたのではないでしょうか。ちなみに参加都市の一つの、アメリカのペンシルベニア州にあるニューキャッスルとは姉妹都市の関係を結んでいます。
 注・「小面」…女性の能面の名前で、光ごとに表情が変わるらしいです。馴染みの深い能面ですね。

 ・・・新城は Newcastle でしたか、なるほど!

 

③ 大阪府茨木市 ~ 茨木童子

 子どものようだが立派に牙をむいて金棒をもった「鬼」、でなければ雷さまのような、こちらさまは、どなたさま?

 これは茨木童子。茨木童子は大江山の酒呑童子の舎弟だそうだ。一条戻橋や羅生門あたりで渡辺綱と渡り合い、切り落とされた腕を取り返しにきたのは茨木童子である。僕はなんとなく、これが酒呑童子その人(?)と思い込んでいた。考えてみれば、渡辺綱は源頼光配下の四天王の一人である(残りの3人は、坂田金時・碓井貞光・卜部季武)。親分同士が「酒呑童子 vs 源頼光」とするなら、舎弟同士で「茨木童子 vs 渡辺綱」とするのが、正しい組み合わせにちがいない。うちの教会の渡辺さんはその末裔だそうで、末裔もこれだけ代を重ねれば全国に数多かろうけれど、酒の強さは確かに血筋を証明している。

 wiki から画像を拝借。

   茨木童子@茨木市の橋の欄干

 茨木童子にちなんだ飛び出し坊や

 月岡芳年画『新形三十六怪撰』より「老婆鬼腕を持去る図」。渡辺綱の伯母に化けて自分の片腕を奪い返した茨木童子。

(https://ja.wikipedia.org/wiki/茨木童子)

 俵藤太が退治した大ムカデは平将門のことだという。ムカデはペアで出ると決まったもの、その相方が藤原純友だとすれば、話もうまくできている。酒呑童子や茨木童子は何の具象化だろう?一般的な邪鬼悪霊の総帥?それとも大ムカデ同様、何かしらの歴史事実に対応するのだろうか?


アントニーとクレオパトラ

2015-08-19 14:10:49 | 日記

2015年8月19日(水)

 「文学は生きていくための実学」とは誰が言ったか、蓋し名言である。

 シェイクスピアが何の役に立つかって、大立ちだ。そこに出てくる名言・警句の類は日常生活を実に豊かにする。これは翻訳であっても、大して効果の減じないのが素晴らしい。

 たとえばこれ、

 「とかく悪い知らせは、持ってきたものに祟(たた)るものだ。」

 処世訓としても実に有用である。『アントニーとクレオパトラ』1幕3場で、クレオパトラと愛欲の日々を過ごすアントニーにローマから使者が来る。使者はアントニーの妻・ファルヴィアの訃報その他の重要な情報を携え、聞けばアントニーが帰国を決意せざるを得ないものである。そうと分かった時のアントニーの不快、それ以上にクレオパトラの逆上を恐れて使者の言うセリフがこれだが、日常生活で活用できる場面は実に多い。

 参考までに原文は、"The nature of bad news infects the teller." これを「悪い知らせはそれを伝える者にも伝播する」と訳した例があるが、ここは「祟る」と決めたい。『金枝篇』などの言う「感染呪術」を思わせる。何しろ金言である。

 で、その祟り方だが、実は1幕3場に現れる使者は、アントニーに不機嫌顔を見せられるぐらいで大したことになっていない。えらい目にあったのは、帰国したアントニーがシーザー(オクタヴィアヌス)の姉オクタヴィアと結婚したことを伝える使者のほうで、この件は2幕5場にある。

 使者 「女王陛下、あの方はオクタヴィア様と結婚したのです。」

 女王 「ひどい疫病がおまえに伝染(うつ)れ!」(使者を打ち据える)

 使者 「おお、堪忍してください。」

 女王 「何ということを言う?この悪党、おまえの目玉を鞠のように踏みつけてやる、髪を引きむしってやる、おまえのような奴は鉄線で鞭打ち、塩水でひりひり漬けて、ピクルスにしてやる。」

 使者 「私は知らせをもってきただけで、縁組させたわけではありません」

 女王 「嘘だとお言い、そしたらおまえに領地をやろう、たっぷり財産をやろう、分相応のものなら何でもやろう。」

 使者 「女王陛下、あの方は結婚しました。」

 女王 「悪党め、おまえは長生きしすぎた。」(ナイフを抜く)

 使者 「お暇致します、私は何も悪いことをしておりません・・・」

 

 悲劇は喜劇的であり、喜劇は悲劇的である。「悪党め、おまえは長生きしすぎた」という言葉を、次男はずいぶん前から思い出しては玩味していたらしい。こちらの原文は、"Rogue, thou hast lived too long." というのだそうだ。

 小田嶋先生はどう訳されたのかな?


ある謝罪

2015-08-19 07:29:47 | 日記

2015年8月19日(水)

 朝のラジオ、広島は福山在住の女性からの投書が紹介される。ハワイへ旅行し、真珠湾を訪れた時のこと、年輩のアメリカ人男性が片言の日本語で話しかけてきた。

 「ヒロシマ、ナガサキ、ゴメンナサイ」

 女性は英語が達者でなく ~ よほど達者であっても返す言葉は難しかっただろうが ~ 表情で精一杯の気持ちを示したという。

***

 若い人々には既に注釈が必要だろうか。日米戦争は日本軍の真珠湾奇襲で幕を開けた。宣戦布告後、できるだけ速やかに攻撃をかけるのが日本側の思惑であったが、駐米日本大使館による米国への伝達が本国の指示よりも遅れ、公式に宣戦が布告された時には既に真珠湾に紅蓮の炎が上がっていた。この手違い(?)が戦争の帰趨をほとんど決定づけた。

 直前まで、大多数のアメリカ人は参戦に消極的であり、日本との間に緊張関係があることは知っていても、よもや戦争になるとは思っていなかった。(この件は、渡米時に自分でしっかり裏を取った。)ただ大統領フランクリン・ルーズベルトとその一党だけが、参戦の口実を喉から手が出るほど欲しがっており、そのために露骨な挑発を繰り返していたのである。日本は挑発に乗った。しかも最悪の形で。「真珠湾のだまし討ち」を聞いた瞬間、我関せずの非戦論が支配していたアメリカ全体が、一挙に巨大な火の玉になった。

 宣戦布告の遅れについては、情報秘匿のためアメリカ人タイピストを解雇していたせいで、外交文書の作成に手間取ったとも言われ、他にも諸説がある。しかしどんな「事情」を持ってきても、釈明にはならない。開戦が時間の問題であることを大使以下が知らなかったはずがなく、いつでも対応できる準備があって当然だった。最悪の場合、短い主文だけでも迅速に伝達し、文書の体裁などは後刻整えるやり方も考えられたところで、何をおいても攻撃開始に間に合わせるのが絶対の要請だった。担当者の罪は文字通り万死に値するが、それはここでのポイントではない。ただ、そのせいで負けたとか何とかではなく、日本の官僚制度が肝心のところでポイントを外すことについての、貴重な事例と教訓が秘められているように思われる。

 それはともかく。

 真珠湾への報復という動機をもって、その後の全てを ~ 具体的には2発の原爆を ~ 正当化するという構図が、長らくアメリカ人の良心を支えてきた。アメリカ人は強迫的なまでに、ことの「正しさ」にこだわる人々である。原爆の惨禍がいかに酷かろうとも、つまるところ日本人は自分の蒔いた種を刈ったのだという主張が、多くの人々にとっての中心的命題だった。「本土上陸を敢行すれば百万の米兵とそれ以上の日本人の命が奪われた」云々は、より相対的・比較考量的な意味づけで、そういう議論が出てくること自体「真珠湾ドグマ」の揺らぎを表しているかもしれない。ともかく「真珠湾」はアメリカ人にとっての超キーワードである。1994年から3年間の滞米中にも12月7日(米時間)が近づくと新聞は必ずそれを報道し、その件で僕らが不快な思いをしていないか、サラは毎年のように気遣ってくれた。

 その真珠湾で、当時を知るに違いない高齢のアメリカ人が、原爆投下について詫びる風景を、福山の女性は伝えたのである。

※※※

 詳細は分からず伝聞でもあることで、この場面そのものを正確に考証することは不可能だし、さほど意味をなさない。ただ僕にとっては、そのような個人が存在するらしいことと、そこから広がるイメージのほうが大事なのである。

 この男性もアメリカ人であるならば、真珠湾の奇襲そのものを不問に付すとは到底言えないだろう。それでも、その場を訪れた日本人に対して、そのことではなく原爆投下のことを、まず自分から謝罪する、その姿勢が感動的なのだ。この人物の正確な主張は不明だけれど、「真珠湾は原爆を正当化しない」との判断が、その行為から自動的に読みとれる。そこに至るまで、彼が経てきた足跡を知れるものなら知りたいと思う。

 「つもり(意図・動機)」ではなく「現にしたこと(行為・結果)」に関して、問責に先んじて謝ること、これは高度の良心の発露ではないだろうか。そして、思い立った時にためらわず実行する勇気を、確かに多くのアメリカ人がもっている。国ではなく、人なのだ。僕らの希望はいつだって生身の人間に託される。

 僕らは誰に対して、何について「ごめんなさい」を言うのか。「つもり」で言い訳するのではない、まず「行為」と「結果」について謝るということを、どこまで広く深く行うことができるか。良心の competition においてこそ、他国民に遅れをとりたくない。そう願う朝である。

 


最近の相談事

2015-08-19 06:23:36 | 日記

2015年8月18日(火)

 蒸し暑くはあるが、帰省に立つ前よりはずっと楽である。留守中の新聞を読み返し、片づけなどしながらのんびり過ごす。

 11時ちょうどに約束の電話がかかり、学生のメンタルな問題について相談にあずかる。いつ頃からだろうか、狭義の/典型的な精神疾患に関する相談事はずいぶん減った。代わって増えたのは、現象としては適応障害、実態としてはコミュニティ機能不全を背景としたパーソナリティ and/or 発達の問題である。精神科医は総体としてこの状況に対応できておらず、対応が個別に委ねられる結果として大きな温度差を生じている。DSMに従って仕分けとラベリングを行い、薬物を処方するところまでで仕事は終わりとする縮小路線を一方の極とすれば、もちこまれる相談事を広く受け止めようとする拡大路線が他方の極にある。各医師はそれぞれの人生観・医療観と技量・経験に従って、両極間の広いスペクトルの任意の場所に地歩を占めるが、全体の重心はかなり前者寄りに傾いていると言って、大きく間違ってはいないだろう。むろん、それではN先生から持ち込まれた3件の相談には、歯も爪も立ちはしない。現に第2のケースでは、発達障害の薬物療法だけを行って、これに付随する生活上の具体的な困難については初めから聞こうともしない、超有名大学系の医師との折衝に関係者一同が困惑しているのである。

 この件はいずれじっくり考えないといけない。さしあたり自分が何を頼りに「健全な拡大路線」を目指しているかといえば・・・何なんだろう?

 土居、笠原、中井、神田橋といった big names を挙げることは容易だが、それだけではないし、たぶんそれではない。それら上部構造を準備した土台というのかな、針生ヶ丘のワーカーと当事者さん、別府で出会ったN先生や同門のS先生など、発信せず知られもしない超腕利きの治療者たち、医療以前/以外の人のつながり等々。

 精神分析を知ったのは非常な収穫だが、うんざりするのは精神分析家を標榜する人々 ~ 肝心の実物見本の中に、いけすかない人間がとっても多いことだ。「縮小/拡大」の軸で言えば、健全な拡大という理想を支える現実の武器を提供するのが、力動的発達理論とそれを踏まえた臨床原則だと思うのだが、現実には「縮小」と「免責」のため、より広くは自己防衛のために分析理論を私(わたくし)するエセ分析家の方がよほど目立っている・・・ように思う。

 んじゃ、自分はどうなんだという話になるから、このあたりで切り上げる。子豚たち、今夜は仲良く横浜スタジアムに繰り出したが、お目当のスワローズが不調で残念な夜になったらしい。