2015年8月4日(火)
土曜日の試験監督について付記。
監督の合間に、その時間の試験問題を眺めるのが、いつも大いに勉強になる。まるで検討もつかない別領域では話にならないが、たいていの科目は何かしら自分の関心事と接点をもっていて、そこで学びが生じる。試験問題は正誤判定の形式で書かれているから、その中のどれが正しい情報かすぐには確定できない。たぶんこうなんだろうなと検討つける作業がまた、記憶の定着を助けたりする。
【学び ~ その1】 「今日のわが国では、殺人事件の過半は家族内で起きている。」
たぶんマルだと考え、帰宅して確認した。
「警察庁のまとめによると、2013年の殺人事件検挙件数のうち、被疑者と被害者の関係が親族間である割合は53.5%」
だったという。殺人事件に占める「家族内」の比率は昔から案外高かったが、ここまで高かったわけではない。その動向について、下記コピペ。おなじみの影山先生(同門の先輩)が解説しておられ、途中までは「なるほど」だけれど、オチは少々残念な感じである。
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殺人事件は戦後、1950年代から減少し続け、1990年代以降は1100~1250件程度とほぼ横ばいで推移、2009年以降はさらに減って1000件以下となった(いずれも検挙件数。警察庁の統計による)。高度経済成長で暮らしが豊かになるのに伴い減少し、その件数に大きな変動がないことがわかる。
しかし、親子、兄弟、配偶者同士など「親族間」の殺人に目を転じると、事情は異なる。2003年までの過去25年、親族間の殺人は検挙件数全体の40%前後で推移してきたが、2004年に45.5%に上昇。以後の10年間でさらに10ポイント近く上昇し、2012年、2013年には53.5%まで増加した。
「超高齢化による老老介護」や「長引く不況による経済的困窮」などが背景にあるとされているが、影山任佐(じんすけ)東京工業大学名誉教授(犯罪精神病理学)はもっと根元的な問題だと解説する。
「そもそも家族は他人よりも圧倒的に近い距離にいるため、『なぜわかってくれないのか』と不満を抱きやすい相手。根本にある依存心、甘えが満たされなかったとき、不満が他人相手より増大しやすい」
特に近年は若年層の「親殺し」が目立つ。2006年6月には、奈良県で16歳の長男が自宅に放火し継母と異母弟妹の計3人を焼死させる事件が起きた。父と同じ医師になることを強要されていたこの長男は、学校のテストの結果が期待通りではないとして父から度重なる暴力を受けていたという。
家族に本来の平穏が訪れるためには何が必要なのか。従来のあり方そのものが現実とそぐわなくなっていると影山氏は指摘する。
「もはや家族の機能不全は当事者だけでは解決できない。セーフティネットを充実させて個人の失敗を社会でリカバリーしたり、社会貢献、国際貢献活動などを通じて多様な価値観を育て、個人のエネルギーを正しい方向に向けさせるような教育をするなど、社会全体の制度設計をし直すべき時期に来ている」(影山氏)
※SAPIO2015年1月号 http://www.news-postseven.com/archives/20141225_291377.html
【学び ~ その2】 あいまいな喪失
「あいまいな喪失 ambiguous loss」という概念を、Pauline Boss というアメリカの家族社会学者が提唱しているのだそうで、この件は7月28日のラジオ収録でゲストの高橋晶(たかはし・しょう)先生から教わった。
今日の試験科目、1限はピッタリコンの「臨床家族社会学」である。その文中に、「さよならのない別れ/別れのないさよなら」という対概念が提示されている。そのうえで、
「夫が行方不明のまま戻らなかった場合、妻が経験するのはどちらだろうか」と、事実上そのような題意である。
知らなくても考えれば分かる問題で、難易度はさておき、考えさせることによる教育的効果を感じる。この対概念のインパクトはきわめて大きい。僕らの生活の至るところを、この種の「あいまいな喪失」が埋めており、知らず知らずそれに蝕まれていくということが確かにある。
「さよなら」は、きちんと言いましょう、ということでもあろうか。曖昧であることが、帰って望ましい場合もありそうだけれど。
「あいまいな喪失」はここ数年、ちょっとしたホットトピックだったのだ。『精神療法』誌が2012年に特集を組み、Boss 女史の著作もぼつぼつ訳出されている。
『「さよなら」のない別れ 別れのない「さよなら」 ー あいまいな喪失』(学文社)
『認知症の人を愛すること:曖昧な喪失と悲しみに立ち向かうために』(誠信書房)
『あいまいな喪失とトラウマからの回復:家族とコミュニティのレジリエンス』(誠信書房)
さて、どれから読んだものかな。