散日拾遺

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少々暑かった週末 ~ 日曜篇

2015-08-27 09:19:35 | 日記

2015年8月23日(日)

 エドはでっかい熊の縫いぐるみみたいな男で、セントルイス時代の仲良しだった。キリスト教国のアメリカでも教会に若者や壮年者がそんなに多いわけではなく、同世代らしきエドは聖歌隊でも貴重な友人だったが、正確に同年の生まれであることを後で知った。当時こちらは息子が二人、エドのほうは娘が三人で、三女のアビーと当方の次男が同い年だったことなどから、なおさら話が弾んだ。娘たちの母親とは離婚しており、遊びに行ったときには慣れない男料理でもてなしてくれたりした。

 そして第二幕。僕らの帰国時には仕事の傍ら娘三人抱えて大汗かいていたエドは、その後めでたく再婚した。お相手のバーブラ(バーバラの綴りだが、バーブラに聞こえる)は放射線科の女医さん、エドより年上でやはり前の配偶者との間に既に独立した子どもがある。9年前にセントルイスを再訪した時は彼らの家に泊めてもらったが、そのまた9年前に遊びに行ったときの小さな男所帯とは2桁か3桁(「にけた/さんけた」とはゼッタイ読まない、「ふたけた/みけた」!)違う、映画に出て来るような豪邸であった。思わず「男の甲斐性」と唸ったものだが、「女の甲斐性」というのが正確だったかな。

 何しろそのエドが、バーブラと二人で日本に来るという。週末どこかで会おう、土曜に投宿したら電話するよとメールで言ってきたものの、これがなかなかかかってこない。こちらからかけてみようと思ったが、メール本文には"Prince Hotel"に泊まるとあるけれども「インペリアル・パレスと東京駅から至近」というのは辻褄が合わない。よくよく電話番号を確認すれば正しくは"Palace Hotel"である。至って呑気なアメリカ人だ。

 で、ホテルの交換台に電話して「エド・リーブにつないで」と頼むと、オペレーターが済まなさそうに「フルネームでお願いできないでしょうか」と、マニュアルに沿った質問を返す。「フルネームですか、え~っと・・・知り合ってこの方、ずっと Ed Reeb と呼んできたので・・・Ed は Edward なんでしょうけれど、その名前でチェックインしてませんか?」

 家内が横からメールの片隅を示す。Robert E. Reeb Ⅱ(ロバート・E・リーブ二世)・・・どこの王様ですか、君ってロバートだったのね、知らなかった。「Robert Reeb 様ですね、おつなぎします」と、これであっさりクリアする。

 

 前日から戻ってきた暑さは今日も健在。10時にホテルを訪ねていくと、6階の彼らの部屋というのが、皇居を見下ろすバルコニー付きの豪奢な空間である。皇居をこんなふうに見下ろすのは申し訳ない ~ 畏れ多いとはいわないまでも ~ 感じがして落ち着かない。天皇制に関する意見などとは別の次元で、とっさに働く生の気持ちである。よくこんなホテルを計画したものだし、よく認可されたものだ。申し訳ないよ、やっぱり。

 「ここで涼んでるのが正解じゃないの?」と軽口をいいつつ、到着直後でまだ時差ボケの疲れを自覚しない彼らを炎暑の巷に連れ出す。江戸東京博物館は絶好の行き先、両国国技館を外から示して浅草へ移動し、天麩羅で昼食。浅草寺をのんびり冷やかし、バーブラは扇子だの絵はがきだのこまごま買い求めている。隅田川で船に乗り、築地の魚市場を川面から眺めつつ浜離宮まで。既に1万歩以上歩いて、車を脚に履いてるような地方在住のアメリカ人としては努力賞ものだ。彼らのおごりでタクシーを拾い、ホテルで小休憩の後、東京駅近くで夕飯。お疲れさまでした。

 楽しい一日の最後に、思いがけないオチが待っていた。よく聞けばエドはずいぶんな日本通で、センテンスはしゃべれないけれど多くの単語を知っており、漢字仮名交じり文の仕組みや、ひらがなとカタカナの併存も理解している。仕事で年に4回は名古屋を訪れ(デトロイト-名古屋間の直行便があるんだそうだ)、その時の楽しみが『水戸黄門』を見ることだという。字幕や吹き替えがないから細かいことは分からないが、お忍びの権力者が弱きを助けて悪をくじく勧善懲悪の筋書き(アメリカ人が心底好きな勧善懲悪!)や、葵の紋所に一同が平伏するおきまりの結末が大好きなんだそうだ。さらに日本のプラモデル、タミヤ模型のはすごくよくできている云々。

 田宮模型・・・?僕もずいぶん作ったが、そういえば軍用機や軍艦が多いんだよな。セントルイスで連想される産業に、バドワイザー・ビールのアナハイザー・ブッシュやモンサント製薬と並んで、航空会社のマクダネル・ダグラスがある。エドはここに勤めているように思ったんだが、「いんや、だいぶ前に移ったよ、今はボーイングなんだ。」細かく話さないのはこちらが訊かないからでもあるけれど、話の流れで彼が軍用機を担当していることが窺い知れる。そうでしたか。

 すっかり涼しくなった夜の帰り道、ライトアップされたホテルや皇居前周辺の美しい光景、まだ巣に帰らないお堀の白鳥などを眺め、複雑な気持ちである。ボーイングの軍用機と聞けば、B29を考えずにはいられない。日本全土を焼き、2発の原爆を運んだ歴史に残る「名機」である。そして戦後にはB52、沖縄・嘉手納基地から連日インドシナまで往復し、ベトナムの北半分を焦土にした。何となく予感があり、江戸東京博物館では敢えてその一画を避けなかったのだ。1945年3月10日から11日にかけて、東京全市とともに焼き殺された人命は広島のそれを上回る数だったと。エドは一瞬顔をしかめ、「その後にどれだけのものが再建されたか、驚くべきことだ」と、穏やかに話を転じたっけ。

 

 国と国とのことと、人と人とのことが、きれいに分けられれば苦労はない。エドに対する親愛の念は変わらないが、一抹のわだかまりを禁じ得ない。数ある職業の中で、なぜ彼がこれを選んだか。今の世界で自分の果たしている役割を、どう考えどう位置づけているのか。もしも十分な時間があれば、いつか話題にせずにはいられない。だから敢えてこれ以上、彼とは親密にならずにおきたいと思う。

 9年前の訪米の際、立ち寄ったシアトルで別の友人がやはり航空会社(調べてみればこれまたボーイング)の運営する博物館に連れて行ってくれた。彼もまた東京に何年も滞在した日本通である。この博物館には軍事関係の展示が多く、最もよく見える場所には硫黄島のすり鉢山に星条旗を押し立てる有名な写真が掲げられていた。さらに驚いたのは、あるドキュメンタリーフィルムである。既に老境に入ったアメリカ人が誇らかに胸を張り、ロッキードP38に搭乗して山本五十六長官機を撃墜した手柄を得々と語っている。証言等をもとにして撃墜の場面が克明に再現され、画面でくり返し流される。「確かにP38は名機だったが、それと零戦とを交換したって、やっぱりこっちが勝っただろうさ。」ああそうですか・・・

 彼らが心を込めて歓待し、案内してくれた多くの場所の中で、ここについてだけは一言言わずにいられなかった。「ポール、君はいい人で君のことは好きだが、この場所は好きになれない。こんなふうに朗らかに戦争を扱っている場所はね、たぶん僕が日本人だからだろうが。」

 むきつけにいうなら、日本人をここに連れてきて喜ぶと思う神経がどうかしているのだ。そのぐらい無邪気に、自分らの強さと戦勝を誇れるのが平均的なアメリカ人である。ただ、ポールは以前にも非常に親しい(僕よりは年輩の)日本人を同じ博物館に連れて行ったという。彼らは何も言わなかったんだね。気を遣って遠慮したか、英語に自信がなかったか、それともその種の展示に敢えて注意を払わなかったか。優しい?それは違うと思うな。そういうのを優しさとはいわない。少なくとも僕はいわない。

 多くのアメリカ人は戦争が大好きなのだ。彼らの考えるところの勧善懲悪の戦争ならば文句なしである。善良にして単純素朴なアメリカ人たち、ベトナム戦争からいったい何を学んだかとは、今は訊くまい。まずは僕らが僕らの戦争から何を学んだか、それを問うことが先決なんだから。