2016年6月27日(月)・・・続き
鳥取・岡山へ出かけるのに、何か一冊もっていこうと思い、サキの短編集『けだものと超けだもの』を鞄に入れていった。289 頁に36の短編がおさまり、お得感も十分なうえ、時間が細切れになる移動の友には最適、と思ったんだが・・・結果から言うと、これはハズレだった。英国風ユーモアを解するにやぶさかではないつもりだが、どうにものろくさくっていけない。
「うちは娘だらけなのよ、だからこれまで必死でよそへ ー もちろん厄介払いじゃないけど、あれだけいれば片づけ先の一人や二人あってもバチは当たらないでしょ。だって六人よ、六人」
「そうでしたっけ。ちゃんと勘定したことがなくて。でも、おっしゃる通りの人数なんでしょうね。ふつう、母親はこの手のことを間違えませんから」
これなんか、まだしもキレのあるほうだ。全体にどうもヌルくていけないのだけれど、ひょっとして翻訳の責任もあるのかな。36分の4でリタイアするのは辛抱がなさすぎるようだが、正直言ってお腹いっぱいである。
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いっぽう、田舎の本棚の埃の中には、しばしば掘り出し物が眠っている。誰がどんな経緯で入手したのだろう、昭和50年出版の城山三郎のコレクション『堂々たる打算』(日経新聞社)を帰途に読んだ。初めはこういったものを書いていたんだね、「組織と人間」の一型だが、『社長室』『緊急重役会』『ある倒産』『輸出』『堂々たる打算』、5つの物語の主人公たちは一人の例外もなく、組織や組織人の悪辣で容赦ない仕掛けに、為すすべなく敗退する。『黄金の日々』のラストが大河ドラマ化されたそれとは違い、堺があっけなく炎上し滅んでいく救いのないありさまなのを訝ったものだが、これがこの作家の本来の身上なのだ。 広田弘毅を描いた『落日燃ゆ』、浜口雄幸と井上準之助を扱った『男子の本懐』が、「にもかかわらず」の代表作となっている訳である。
もう ひとつ、そのこととむろん必然的に関わるのだが、主人公男性たちは例外なく戦争によって人生を痛ましく引き裂かれている。直井輝男は学徒出陣のため、意中の女性と添うことができなかったが、こんなのは軽症である。恩地信幸はニューギニア戦線で貫通銃創を受け、命からがら復員してみると銃後の愛妻が空襲で落命していた。原口某は南支・広東で中国人捕虜の虐殺に心ならずも加担し、彼が密かに応援する久坂は長男がレイテ沖で戦死、次男がビルマで戦病死、いっぽう彼らを窮地に追い詰める大久保は主計将校として無事生き延びた口である。古屋某は名古屋の中学生として勤労動員中に空襲を受け、学友や女子挺身隊員など 172名が死んだ中をかろうじて生き延びた。その折に「裏切り行為」を働いた高山をビジネスの現場で偶然発見し、報復の機会を狙っている。
今どきの若者が読んだら、僕がサキの(翻訳による)「ユーモア」のくどさのろさに辟易するように、これでもかと突きつけられる戦争の傷跡に、恐怖よりも当惑を覚えるのではあるまいか。昭和50年には、これはまだ多くの大人たちがかつて経験した「あたりまえの現実」だった。(念のため、僕はこの年18歳である。)もうひとつ、『輸出』の登場人物・笹上某が南米で錯乱を来したとき、現地の医者があっさりと「精神分裂」の診断をくだす場面がある。どんな意図でそういう想定を置いたか、城山氏に聞いてみたかった。
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