散日拾遺

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博多訪問(続)

2016-06-07 13:07:28 | 日記

2016年6月3日(金)

 実は博多の生まれだが、2歳半で東京へ移りその後は短期の訪問だけなので、博多っ子とはいえない。持続的に影響を受け続けたわけではないので、一宿一飯以上の義理はないと思っていたのだが、面接授業で3泊滞在して何だか不思議な気がした。妙に懐かしく、また空気に「覚えがある」ようなのである。目隠しテストされて当てる自信などはないけれど。

 人々の顔立ちがくっきりしている。女性の化粧や聞こえてくる会話などが、4Bの鉛筆で輪郭を描いたようにはっきりはきはきしている。無愛想なようだが飾らないだけで、粗野とか乱暴とかではない。雑餉隈のエレベーターに乗り合わせる人々は旅行者が多いから博多人の標準にはならないが、ホテル内や路上を含め通りすがりの人々からこんなにマメに挨拶された ~ 「おはようございます」「お先にどうぞ」 ~ ことは記憶にない。

 気もちのよい足かけ4日だった。

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 片岡先生は「師弟」という関係のもち方を徹底的に否とされたので表現が難しいが、そう言って良いなら兄弟子にあたる人が西南学院で長らく教鞭をとっていた。この正月に突然の電話があり、当地のがんセンターに入院しているという。何度か電話があった後は御無沙汰になっていたので、博多行きのついでに見舞うつもりでいたところ、出発直前インターネットで確認して春先に他界しておられたことを知った。今年前半、これでもう何人目かわからない。福岡空港から地下鉄に乗ろうとして、最初に目に入ったのが西南学院の広告で、しばし立ち止まって見つめていた。

 

 その晩はYさんともつ鍋、面接授業一日目の土曜の晩は雑餉隈で串揚げ、二日目を終えて日曜の晩はYさんとその師匠のKさんに連れられて水炊き、これで太らなかったらおかしい。

   

  ↑ 馬刺しの横の、一見脂肪の塊に見える白片、実はタテガミなんだと!コラーゲンの塊でヘルシーかつとても美味。お馬さん、ありがとう。

 月曜日は夕方の飛行機なので、半日を散策にあてた。その昔リューベックを訪問した時は、ハンザ都市の大きさを実感してやろうとまずは市の城壁を歩いて一周 した。この方式は非常に気に入っていて、できる限り歩くに限るのだが、博多・太宰府エリアはさすがに広すぎるから電車の力を借りる。

 まず、南福岡から鹿児島本線を南下し、大野城・水城を経て太宰府もよりの二日市まで。「城」の名が続いているのは例の故事に依る。663年に白村江で大敗した後、唐・新羅連合軍が余勢を駆って攻め寄せてくることを朝廷は「本気」で恐れた。当時の海岸線は現在よりずっと南まで入り込んでいたのであろう。上陸した敵を太宰府の西北の正面で食い止めるため、東西の山稜を結ぶ形で長さ1.2km、高さ9mに及ぶ土塁を築き、その外側に堀を作った、これが水城(みずき)、その外(=北)側に出城を設けたのが大野城(大坂城でいえば真田丸か)、これが地名に残っているわけだ。

 惜しいことに、水城は往時の姿をほとんど止めていない。インターネットのある投稿者は「経済的な便益のために、歴史的な遺産を破壊して顧みない」風潮を憤り嘆いているが、そういう事情で消え去ったのかどうか、僕には分からない。司馬遼太郎が『燃えよ剣』の中で、鳥羽伏見の戦いできわめて重要な意味をもった伏見奉行所跡が、跡形もなく取り払われた様子を書いている。

 ・・・ 「団地どすわ」と吐きすてるように(御香宮の神主さんが)言った。 なるほど現場に立ってみると、奉行所があった場所はブルドーザーできれいにならされて、星形建築や羊羹型の建物がたっている。私は呆然と団地風景を見渡した。(『燃えよ剣』(下)新潮文庫版 P.124)

 ケインズが1930年代の世界恐慌を克服する処方箋として、「ピラミッドを建てては崩す繰り返す無意味なものでも構わないから、何かしら事業を興すこと」を提唱したことがあるが、そういう文脈だったら水城の再構築などうってつけのアイデア・・・というほど大規模なものでもないか。その気になったら簡単にできちゃうね。しかし構想は雄大、何しろ大陸からの遠征軍を迎え撃つ覚悟だったのである。

 

立志塾さん(http://risshijuku.dosugoi.net/e551266.html)より拝借

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 太宰府天満宮が「文」の神様なら、筥崎(箱崎)宮は八幡様で「武」の神様、「四百余州を挙る 十万余騎の敵」で始まる軍歌『元寇』にも、「箱崎の神ぞ知ろし召す/大和魂(やまとだま)いさぎよし」と歌われている。当時わが家はキリスト教ではなく、初参りには箱崎に連れて行ってもらった・・・はずだ。59年後のお礼参りには残念ながら時間がない。行くなら太宰府から戻って博多から下関方向に2駅ほどで、頭上を板付に離着陸する航空機がひっきりなしに轟音を落としていく。

 博多で乗り換え、生家の方角へ行ってみた。かつては路面電車が父の通勤路で、西新(にしじん)町が最寄り駅。同じルートを今は地下鉄空港線が走り、駅名の「町」が取れて「西新」である。いったん南へ下って住処のあった曙町あたりを散策し、ついで西新へ戻って今度は北へ。道の向かいに修猷館、その北側が西南学院、横目に見ながらサザエさん通りを高層ビルが天を衝く海側へ歩くと、20分ほどで百道(ももち)浜に出る。赤ん坊の頃、両親に連れられて訪れた砂浜だが、思いのほか感慨がない。今ではすっかりリゾート風に開発され、観光客の中国語や英語が陽気に響いている。戻る道は授業の切れ目らしい西南学院から若者があふれ出て、西新への道を賑やかに塞いでいる。

 ここはその場所ではない。開発されたからというのではなく、その場所はその時にしか存在しない。そんな考えが無性に脳裏を巡った。

 

 それより前、ちょっと面白いことがあった。最初に西新駅から曙町を目指したとき、方向を30°ほど間違えて道に迷ってしまった。建築事務所の前で水を打っていた女性に方角を聞いたら、「曙町?歩いて行くんですか?だいぶありますよ」と少し呆れたような顔、助言通り10分ほどで駅まで戻り、地図を見直していたら郵便配達のおばさんが赤いバイクを目の前に止めた。この人なら間違いないと「曙町は」と訪ねたら、目をつぶって上を向いてしまった。「曙、曙は、え~と・・・」数呼吸あって「方角はあっちね」と南東の方向を指さした。「でも、歩いたら遠いよ、バイクならすぐだけど」「ありがとうございました」

 お言葉ではあるが、そんなはずはないのである。足任せ党の僕にしては珍しく地図を念入りに確認し、今度は間違いなく早良(さわら)街道を南へ下ると、わずか7分660歩で「曙町1丁目」の北西の角に着いた。

 

 何で、どうして、こういうことが起きるんだろう?都立大学の駅前で「大岡山」「八雲」あたりの地名を訊くようなものなのに。地元の住人や郵便配達人が 「とても徒歩の距離ではない」と思い込んでおり、方向を簡単に教えることもできない隣町の「曙町」・・・う~ん、わからない!何しろこのあたりで僕は生まれたのだ。正確に言えば、九大病院でとってもらってこのあたりへ帰ってきたのである。やっぱり不思議な気もち、かな。

   

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