2016年6月2日(木)
5月27日(金)のオバマ演説。身の回りで最初の反応はNさんという女性からのメールだった。
「パフォーマンスという人もいるけれど、さすがオバマさんの演説は上手ですね。"71 years ago...." という始まりはキング牧師の演説を思い出させます。」
僕の方はこの出だしから、リンカーンのゲティスバーグ演説を連想していた。
Four score and seven years ago our fathers brought forth on this continent, a new nation, conceived in Liberty, and dedicated to the proposition that all men are created equal. (A. Lincoln, 1863.11. 19)
Five score years ago, a great American, in whose symbolic shadow we stand today, signed the Emancipation Proclamation. (M.L. King, 1963. 8. 28)
もちろん偶然というものではなく、当然ながら後者は前者を踏まえ、リンカーンを崇敬して止まないアメリカ人一般の心性に訴えかけている。内容だけでなく形式においても「踏まえる」ことで効果は倍増する。リンカーンはアメリカ史上で最も人気の高い大統領の一人だが、人気の最大の根拠は「奴隷解放」よりも「アメリカ合衆国の分裂を阻止し、一体性とアイデンティティを守った」ことにある。奴隷解放はむしろ副産物というべきで、MLKは副産物を主産物の位置に押し上げようとしたと言ったらわかりやすいか。
オバマが "71 years ago" という語り出しでどの程度両者を意識しているか、僕には判断できない。むろん意識の周辺あたりにないはずはないのだが、歴史・沿革から説き起こすスタイルは既にリンカーンやMLKだけのものではなく、アメリカ人のスピーチの一つの定型になっているに違いない。歴史の短い国であるからこそ、自覚的に歴史に言及しようとする。その風景を繰り返し見てきた。(その逆が日本人の「歴史音痴」である。)合衆国大統領としては至って自然なオープニングとも思われるが、彼が黒人初の合衆国大統領であり、合衆国大統領として初めて広島を訪れたことを考えれば、この三つのスピーチを重ねて読むことにはある種のドラマティックな意義が感じられる。
そもそも、こんな場面は半世紀前には夢想もできなかった。要するにそんなオバマが今では暗殺される恐れがないのである。アメリカはかなり奇妙な国である。その奇妙さのひとつは、非常な速さでシステムの更新を行い続けていることだ。(ここでも、いつになっても基本的に何も変わらない当方との対照が痛感される。)
だから2016年5月27日(金)の広島は、やはり歴史的な光景を見たのである。僕らが深く巻き込まれている、現代の歴史である。
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演説には何のコメントも付けず、ただ全文を朝日新聞の訳とともに貼り付けておいた。むろん軽々しく論評するのでなく、じっくり考えてみたかったからだが、言挙げする資格のある人、その優先順位の高い人が他にいると思い、その人々の言葉を先に聞きたいと感じたからでもある。自分自身の感想を言うなら、「いろいろ引っかかるところはあるけれど、ともかく彼がここに来たこと自体を大きな前進と受けとめる」といったところに落ち着くだろう。
それから一週間近くが経ち、その間ぼつぼつ反応が聞かれている。Nさんの次に反応を寄せてくれたのは、被爆二世ことYさんであった。
「被爆した母が生きていて、もし、このスピーチを聴いたら何と言っただろうと考えていました。日本は、本当に平和なのでしょうか。幸せなのでしょうか。戦後、物質的な豊かさと同時に孤独さを手に入れ、母親たちは孤独な子育てを強いられ、人と関わることが苦手で自尊感情の低い子どもたちを育ててしまった日本は、平和で幸せなのでしょうか。
プラハでのオバマさんの核兵器廃絶スピーチは、どこに消えてしまったのでしょうか。
母は、おそらく草葉の陰でガッカリしていると思います。」
Yさんの主張と気もちを十分に理解している自信はないが、重なるものをおそらく僕も抱えているのだ。テレビ報道で見る限り、被爆当事者の面々はオバマ来日を一様に歓迎しているようである。しかし「歓迎する」というのは乱暴な概括で、気持の隈には言い尽くせないものが当然あるだろう。ついでにこうした場合の常として、反応表出を拒絶したり自制したりする人々の「声」は聞こえてこない。結果的に聞こえてきたのが、いわば公式に認知された反応としての「歓迎」である。
やがておもむろに外野が忖度し始める。「外野の忖度」とは意地の悪い言い方だが、決して無意味だというわけではない、誰のどんな発言も意味がある。ただ、ひょっとすると「無意味」ではなく「有害」の方角に転がってしまうかもしれないなどと、ことがことだけに慎重に構えつつも、若い人の下記の言説に共感を禁じ得ない。
「反撥や怒りが出てこなかったのが不思議でした。被爆者がアメリカに恨みを抱くのはごく自然なことで、今回も『ふざけるな』と思っている方がいたかもしれない。しかし、そうした怒りが、社会の反応として出てこない」
「核について建前だけで話すのではなく、感情を取り戻すべきです。非生産的だといわれて抑圧されてきた情念的な怒りや恨みが、生産的なパワーとなって、『平和』や『日米友好』の美名にヒビを入れられるかもしれない」
(神戸市外国語大学准教授 山本昭宏氏 朝日新聞5月28日朝刊15面)
いっぽう、今朝のNHKラジオ「私の視点」には齊藤環氏が登場し、オバマ演説の良い点ばかりを丹念に拾ってほぼ一から十まで褒めちぎった。長崎の永井博士が原子力平和利用への期待を語ったこと、フロイトとアインシュタインの往復書簡、巨大な人災を天災の如くに体験し受け容れる日本人の特性などが次々に語られ、全体のスジとしては、責任論を棚上げにして悲劇の碑の前に頭を垂れ、人のもつ破壊衝動を理性的に克服していこうとするオバマ路線への全面的な支持を表明するものだった。個別の点に異論はないし、そもそも寝起きの頭でどこまで理解できたか怪しいが、影を語らず光だけを追って「読み解」いたと言われても腑には落ちないのである。
さて、問題はこれからだ。
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