散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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ヘタクソな写真で追う先週の土曜日

2017-08-28 18:19:34 | 日記

2017年8月28日(月)

 表題通りの内容、出不精の僕には珍しく炎天下を東奔西走(右往左往?)した証拠写真s。

  

 朝の出がけ、御近所のこれはタチアオイかな。通行人の目の保養になること感謝。

 

  

 全身黒ずくめのトカゲ、本名は何というの?ペアの一方が素早く右上へ逃げた。駒場野公園入口にて。

 

 

 午前中で仕事を終え、待ち合わせて文化村へ。ベルギーには昔からヘンな画家がいた、その末のアンソールとマグリット。
 実は信心深かったヒエロニムス・ボス、活躍の時期が奇しくも宗教改革直前である。1516年没はできすぎの偶然。

 

 

 銀座へ移動して、中学以来の旧友S画伯の新作を見る。数年前から赤が増えてきた。
 還暦を迎えて朱夏いよいよ盛なりや。

 

 

 ほったらかしのニラの叢が、今年もけなげに穂を出した。残暑の風に揺れて秋を呼ぶ夕方の風景。

Ω

 

 


東洋人万歳!

2017-08-28 11:38:43 | 日記

2017年8月28日(月)

 検索したいことがあって google の画面を開いたら、自分みたいなのが出てきてちょっと驚いた。ユーザーのポートレイトを微妙に細工して画面に出すぐらい、今どきは朝飯前ですらないだろう。でも幸い違ったみたい、以下いずれも Wikipedia からのコピペ。勝沼さんなら一言あるかな。

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 ジェームズ・ウォン・ハウ(James Wong Howe, 黃宗霑, 1899年8月28日 - 1976年7月12日)は中国で生まれ、ハリウッドで活躍した撮影監督。サイレント時代から活躍し、130本以上の映画撮影を手がけた。1955年の『バラの刺青』と1962年の『ハッド』でアカデミー撮影賞を受賞。

 台山市に生まれるが、生まれた年に父親がアメリカに働きに行き、5歳で家族と共に移住した。ワシントンD.C.で育つ。若い頃はボクサー志望であったが、ロサンゼルスに移った後にさまざまな仕事に就き、ある映画スタジオに働き口を見つけ、セシル・B・デミル監督の元で働くようになり、ヘンリー・小谷から撮影の全てを学んだ。

(以下略、作品の中ではっきり見た記憶があるのは『ピクニック』ぐらいかな)

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 ヘンリー・小谷(へんりー・こたに、本名・小谷倉市、1887年4月25日 - 1972年4月8日)は、大正・昭和期の映画監督。日本映画初期に、アメリカから最新技術を紹介、実践し、開拓者・指導者としても大きな役割を果たした。

 広島県仁保島村(現広島市南区仁保町)生まれ。幼少時に両親とアメリカへ渡り、ハワイ、サンフランシスコと移住。ハイスクール卒業後、「オークランド・ヒルズ・カレッジ」に入るが1911年中退。ハイスクール在学中の1907年からサンフランシスコの「アルカザー劇場」で働き、1913年に「トーマス・H・インス撮影所」へ入り『火の海(神々の怒り)』(1914年、レジナルド・バーカー監督)など俳優として映画、舞台に出演する。ここには青木鶴子、トーマス・栗原、早川雪洲もいた。1917年、「フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー(後のパラマウント)撮影所」に移りカメラマンとなる。(以下略)

Ω