2017年8月28日(月)
検索したいことがあって google の画面を開いたら、自分みたいなのが出てきてちょっと驚いた。ユーザーのポートレイトを微妙に細工して画面に出すぐらい、今どきは朝飯前ですらないだろう。でも幸い違ったみたい、以下いずれも Wikipedia からのコピペ。勝沼さんなら一言あるかな。
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ジェームズ・ウォン・ハウ(James Wong Howe, 黃宗霑, 1899年8月28日 - 1976年7月12日)は中国で生まれ、ハリウッドで活躍した撮影監督。サイレント時代から活躍し、130本以上の映画撮影を手がけた。1955年の『バラの刺青』と1962年の『ハッド』でアカデミー撮影賞を受賞。
台山市に生まれるが、生まれた年に父親がアメリカに働きに行き、5歳で家族と共に移住した。ワシントンD.C.で育つ。若い頃はボクサー志望であったが、ロサンゼルスに移った後にさまざまな仕事に就き、ある映画スタジオに働き口を見つけ、セシル・B・デミル監督の元で働くようになり、ヘンリー・小谷から撮影の全てを学んだ。
(以下略、作品の中ではっきり見た記憶があるのは『ピクニック』ぐらいかな)
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ヘンリー・小谷(へんりー・こたに、本名・小谷倉市、1887年4月25日 - 1972年4月8日)は、大正・昭和期の映画監督。日本映画初期に、アメリカから最新技術を紹介、実践し、開拓者・指導者としても大きな役割を果たした。
広島県仁保島村(現広島市南区仁保町)生まれ。幼少時に両親とアメリカへ渡り、ハワイ、サンフランシスコと移住。ハイスクール卒業後、「オークランド・ヒルズ・カレッジ」に入るが1911年中退。ハイスクール在学中の1907年からサンフランシスコの「アルカザー劇場」で働き、1913年に「トーマス・H・インス撮影所」へ入り『火の海(神々の怒り)』(1914年、レジナルド・バーカー監督)など俳優として映画、舞台に出演する。ここには青木鶴子、トーマス・栗原、早川雪洲もいた。1917年、「フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー(後のパラマウント)撮影所」に移りカメラマンとなる。(以下略)
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