散日拾遺

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御自身の死生観は?

2019-10-05 22:08:59 | 日記

2019年10月1日(火)

 メマイがするほど多事多忙であり、霊的な季節でもあった九月が終わった。

 秋の彼岸なれば霊的でもあろう。ただ、この季節の象徴として彼岸花(曼珠沙華)は少々激しすぎる。私的には韮の花を強く推したい。八月下旬から十月上旬まで、すっと伸びた堅い緑の茎の先に、白く可憐な花を群生させて、思い出の人影を偲ぶにこのうえなく適している。この姿にあの刺激臭が伴うのは造物主の悪い冗談だが、食材としてはそこが魅力なので話がまたややこしい。

 10月の最初の日が火曜日にあたり、A君のクリニックで診療に先立って、今月は死生学の小講演を頼まれた。おあつらえ向きにクリニックから徒歩3分の公民館があり、A君の精力的な働きかけで100人近くも集まった。過半がクリニックに通院中の患者さんやその家族だというから、いかに地域の人々と良い関係を築いているかがわかる。

 聴衆の中にA君の御両親(御出身は宇和島、つまり同郷の大先輩)や神経生理学者のK君の姿があり、嬉しくもあり緊張もする。ぴったり1時間、「葉隠」だのキューブラー=ロスだのデスカフェだのと右往左往。皆とてもよく聞いてくれたが、笑いのツボへの反応が乏しいのが少々残念。笑ったりしては申し訳ないと自制する、きまじめな気配が感じられてこちらが申し訳なくなる。

 そんな風だから質疑応答がなかなか出ない。そのままA君が締めくくろうとしたとき、撮影のために来ていたスタッフが手を挙げた。合理的で外向的なA君は積極的に外注を活用する。クリニックのウェブサイトも専門家に任せており、そのチームに今日の撮影を依頼したのである。

 「死生観は人それぞれであるというお話がありましたが、A先生と石丸先生それぞれの死生観をお聞かせくださらないでしょうか?」
 さすがそう来ましたか、録画の締めにも格好の質問に違いない。目配せするとA君よどみなく、
 「僕はただ、いつ死んでも侮いの残らないよう、毎日一生懸命生きてるだけで」
 「学生時代のA君そのままです。ジュリアス・シーザー型ですね」
 お行儀の良すぎる聴衆が、ここではじめて和やかに笑った。A君が地域の医者として大いに愛されていること、これで確定。次はこちら、どうも仕方がない。

 ・・・私の方はA君のようにはいかなくて、ああでもないこうでもないとグズグズ考えます。お察し方かと思いますが、私はヤソ教徒なのでそれが死主観の根本になります。ただ、せっかく日本人に生まれついたことだし日本の文化は大好きなので、どうせなら日本人らしいヤソ教徒でありたい。そうですね、古武士の風格のあるクリスチャン、武士道の潔さ、すがすがしさが香るようなクリスチャンになれたら嬉しい、現実とはだいぶ開きがありますが・・・云々

 閉会後、クリニックまで歩きながら苦笑した。結局、新渡戸-内村の線から一歩も出ていない。それならそれで良いのだけれど、その線を少しくマジメに追うとなると、儒教というものにあらためて出会うことになる。
 新渡戸が、
 「孔孟の理想は武士の心の中に永遠の住処を見いだした」
 と書いた、そのことである。

 軽薄な自分としては儒教の本線はしんどいので、まずは君子のタシナミと称して「琴棋書画」の実行から始めようとしている。
 琴 ・・・ バイオリン、竹内さんのおかげで音階練習は毎日欠かさなくなった。
 棋 ・・・ むろん囲碁、日々精進怠りない。
 書 ・・・ ブログ(・・・ちがうの?)
 画 ・・・ さてこれが問題、どうしたもんだろうか。
Ω