散日拾遺

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「先生」という呼称が響かせる意味合いの歴史的変遷について

2019-11-15 07:21:20 | 日記
2019年11月15日(金)

 大辞林の解説に、「先生という敬称が必ずしも尊敬を伴うものではない」とあるところ、後から考えて面白く感じた。若い人たちには意味不明なのではあるまいか。あるいは、若い人たちが「何で?わかるよ、先生だからって尊敬すると限ってないじゃん」というのと、僕などが「わかるんだよなー」と思うのと、少しくズレがあるのではないかしらん。

 というのも、

 子どもの頃、父が(叔父なども?)嘲り言葉として「先生」を使うことがあったと記憶する。たとえば「あの先生、やることが信用ならんのでなぁ」といった表現で、僕自身が出来の悪い答案を持ち帰って、父から「この先生、またおんなじ間違いをしよらい」などと決めつけられたりした。もちろん、露骨な皮肉である。
 こういう用法は父前後の世代(まで)が常用したもので、長谷川町子さんの漫画にも用例があったように思う。しかし僕らは、親が言うから理解はできるが自分ではほとんど口にせず、やがて聞くことがなくなった。要するにある世代(まで)限定の表現である。
 おそらくはその背景に、「先生」と呼ばれて突出して偉い(と見なされる)一群の存在があった。往時の大学教授、高等教育機関の教師、医師、代議士、宗教家といった人々で、彼らは今日のそれからは想像もつかないほど権威があり、尊敬され、数が限られていた。現代の医師など同じ「先生」でも往時の「先生」の残り滓(かす)みたいなものである。
 この人々の影響力が実体的に抜きん出ていたからこそ、これにあやかろうとするマガイモノも出没すれば、その偽善性を暴こうとする反骨の輩も跳梁したわけで、そうした構造や力動を二文字に象徴する「先生」を踏まえて、「・・・と呼ばれるほどのバカでなし」の言い回しが成立し得たのである。
 だから正確に言えば、「先生という呼称が必ずしも尊敬を伴わなかった」というよりも、「かつての先生は今よりもよほど偉い存在であり、従って好んで先生と呼ばれたがる低俗な心理があったため、先生と呼ばれて喜ぶようでは、その種の低俗な輩であることを自ら証明することになりかねなかった」ということではなかっただろうか。

 翻って今日、先生という言葉ははるかに広く用いられるようになり、先生と呼ばれる人々の数が激増してインフレを起こすようになってから既に長い。当然ながらそのレベルは下落して見上げるほどの存在でもなくなり、従ってこの呼称を未熟者や俗物に対する皮肉として用いることは意味がなくなった。若い女性スタッフらが空疎な愛想笑いで応じるのも無理はないという次第である。
 こちらもこちら、医学部の学生時代に病院出入りのプロパーさんから「先生」と呼ばれた時は、何とも言えない不快を感じたものだったが、今はこの呼称に帽子ほどの重みもなく、快も不快も感じはしない。
 ただしそれは医療機関や大学周辺でのこと。それ以外の場所、とりわけ教会で先生は ~ 教会学校の教師を指す場合を除き ~ まっぴら御免、実際、先生じゃないんだからね。

 昔話が、思いがけず長くなりましたとさ。

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