2019年11月28日(木)
不覚にもイタロ・カルヴィーノ『不在の騎士』をまだ読んでいなかったことに気づき、仕事帰りにS書店に寄った。あいにく河出文庫のその一画には目あてのものがなく、代わりに美味しそうな面々が「あたしじゃダメ?」と秋波を送ってくる。こういう時がいちばん危ない。
危ない危ないと呟きながら、結局カルヴィーノ 2冊、ウンベルト・エーコ 2冊、カート・ヴォネガットも2冊、ついでに『ラテンアメリカ怪談集』まで籠に入ってきた。今は文庫本も安くはないのに。
軽く昂ぶりながら、一階のカウンターに7冊ドンと置いて、
「カバー、要りません。」
「恐れ入ります、袋にまとめますか?」
「お願いします。お勘定はクレジットカードで」
「かしこまりました。」
その時、スリムな女性店員の制服の名札が目に止まった。ほう・・・
だいぶ視力が落ちたこととて、よく確かめ考えてから、
「私の親しい友人に」
「はい?」
「コウケツ君というのがいます。」
「あ、ホントですか?!」
破顔一笑、ああ良かった。
「珍しいですよね」
「なかなか読んでもらえません…暗証番号をお願いします」
「確か、由緒正しいお名前だったような」
「はい…こちらお客様控えです」
「絞り染め、でしたっけ?」
「あ、そうです、よくご存じですね」
「友達のことがあったので、以前調べてみたんです」
女性は笑顔を抑え、伸び上がるようにして建物の外の暗がりを見やった。
「雨除けのビニールはいかがなさいますか?」
「ああ、助かります。」
丁寧にビニールのかかった紙袋を受け取り、出口近くでにわか展示の傘を一本購った。こんな日に傘を持たずに出てくるのが不用心というものだが、以前も同じ場所で買った傘を気に入って長く使ったことがあり、それはそれで幸運の香りがする。気に入りの傘をさして歩くと、雨の煩わしさがあらかた消えるようだ。
僕は一つ嘘を言った。コウケツという姓は僕の友人の中にはない。次男の学校の保護者会でこの姓の人に出会い、挨拶を交わした記憶があるだけだ。姓の由来が気になって、帰宅後に調べたのは本当のことである。
***
纐纈: こうけち、または、こうけつ。奈良時代に行われた絞り染めの名。布を糸でくくり、模様を染め出すもの。
「文学は、生きていくための実学である」(誰?)
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