2020年4月7日(火)
午後からAクリニックの診療に出かけ、帰りの移動はちょうど緊急事態宣言について首相の記者会見が行われている時間帯である。空いた車内は移動書斎、ゆっくり楽しみながら読み終えた。
長兄・呉浣、次兄・呉炎、そして呉泉こと呉清源。冒頭で筆者が述べるとおり、宋家の三姉妹に引き比べてみたい三兄弟である。
宋靄齢(1889-1973) 孔祥煕の妻
宋慶齢(1893-1981) 孫文の妻
宋美齢(1898-2003) 蒋介石の妻
「一人は金を愛し、一人は国を愛し、一人は権力を愛した」と称される。
いっぽう、
呉浣(1910-1994) 元満州国事務官、大戦末期に台湾に移住
呉炎(1912-没年不詳) 中国共産党の活動家を経て大学教授・詩人
呉泉(1914-2014) 棋士として日本に永住
著者桐山桂一氏は宗家三姉妹を踏まえて、下記のように記す。
「一人は家のために生き、一人は祖国のために生き、一人は才能のために生きた」
丁寧な調べに基づいた好著だけに語りどころに事欠かないが、ここでは少々ヤブニラミ的に三カ所だけ転記しておこう。呉清源の生涯の中で、不条理とも感じられる奇異なできごとにまつわる箇所である。不条理と言っては誤るか、いずれも人為に関わることであり、日本と日本人のあり方に関わりなしとしない。
【国籍抹消事件】
「そのころ不思議な出来事も起こっている。呉清源の国籍問題である。もともと中国生まれの呉清源は、来日後の八年間、中国籍のままで過ごしていたが、戦局の悪化により、日本に帰化し、日本国籍で戦後を迎えた。ところが、その年の夏、在日華僑の人々が璽光尊と打ち合わせをしたうえで、呉清源を杉並区役所まで連れて行った。本人を別室で待たせたまま、在日華僑の人々は役所との間で、特別なやりとりをしているらしかった。それは呉清源の日本国籍を抹消する手続きであった。呉だけでなく妻・和子の国籍もそのとき消された。
むろん国籍の離脱などは本人の意志がなければできないものであるが、このときは戸惑う役人を前に、「敗戦国の国民が何を言うか!」と華僑が怒鳴りつけ、強制的に呉清源夫妻の日本国籍を抹消する手続きが取られたという。そのような無法が通用する混乱期でもあったのである。別室で待たされていた呉清源にとっては、いったい何が行われているのか、さっぱりわからなかった。やがて呉清源には在日華僑の手から、中華民国の仮パスポートが手渡された。中国籍に戻されたという意味であろう。
ところが、橋本宇太郎との第一次打ち込み十番碁が始まり、八月下旬の第一局目で呉清源が負けてしまった。何しろほぼ二年間もろくに碁石を握っていなかったのである。すると、今度は在日華僑の人が再び呉清源のもとを訪れ、
「だらしなく負けてしまう者には用がない」と言って、もらったばかりの仮パスポートを呉清源から取り上げてしまったという。」
(P.258-9)
※ 璽光尊(じこうそん、1903-1983)は宗教団体「璽宇(じう)」の教祖。本名は長岡良子(ながおかながこ)
とんでもない話だが事実である。この結果、呉清源夫妻は無国籍状態となってしまった。少々怒鳴られたからといって、一夫婦の国籍を抜く手続きをおめおめとったというのが呆れた話で、親に怒鳴り込まれて被虐待児のマル秘情報を伝えた市役所職員のルーツがここにある。
【日本棋院除籍事件】
「そのころ奇妙な事実も発覚した。呉清源が日本棋院から除籍されているというのである。本人はもちろん1928(昭和3)年に来日してから、ずっと日本棋院の所属棋士であると思っていただけに、寝耳に水の出来事だった。
『そのころ読売新聞は私に引退を勧めてきました。でも、私にはそんなつもりは毛頭ありませんでした。ですから、引退の提案は断ることにし、同時に25年間にも及んだ読売新聞との専属契約も解消することにしたのです。そして、毎日新聞主催の本因坊戦に申し込んでみたところ、日本棋院から初めて除籍の事実を知らされたのです。そのとき「外来者として申し込んでほしい」と言い渡されたのです』(呉清源)
たしかに呉清源は日本棋院から1948年に「名誉客員」という称号をもらってはいた。その時点で棋院を除籍となったらしかった。いったい何があったのか、驚いた呉清源は旧知の木谷実に真相を調べてもらった。
『すると、もっと驚きました。私の師匠である瀬越憲作先生が、戦後間もない1947年に、私の辞表を日本棋院に提出していたというのです。師匠が出した辞表であるため、日本棋院が私に確かめないまま、それを受理したというのです。それにしても、当の本人に対し、何の説明もなく、除籍するとはおかしな話です。』(呉清源)
除籍の事実に納得がいかない呉清源は、直接、瀬越に質してみた。すると、こんな返事があった。
『いろいろ圧力があって、やむを得なかった。翌年には私も(日本棋院の)理事長を辞めさせられた。』
圧力とはいったい何だったのか。呉清源はそれ以上、瀬越に問い質すことはなかった。瀬越は1972年に83歳で亡くなった。自殺であった。(中略)除籍の問題は謎のまま、未だに呉清源は日本棋院の「名誉客員」というただ一人の特別な立場にいる。(引用者註: 本書は2005年の刊行)」
(P.307-8)
著者とともに問う、圧力とはいったい何だったのか。呉清源が黙して耐えたところに、この人物の宗教家的な philosophy が現れている。僕などならさぞかし騒いだか、あるいは謎の圧力の不気味さにあえなく押しつぶされたことだろう。
「師匠が出した辞表であるため、日本棋院が私に確かめないまま、それを受理した」というところに、今日標準では了解の難しい往時の師弟関係が表れてもいるが、呉の言うとおり「それにしても、当の本人に対し、何の説明もなく、除籍するとはおかしな話」で、日本棋院はこれについて釈明する責任を歴史の法廷で問われている。
【無冠の名人】
1939-41 木谷実 先相先に打込む
1941-41 雁金準一 呉の4勝1敗で打ち切り
1942-44 藤沢庫之介 向先で4勝6敗
1946-48 橋本宇太郎 先相先に打込む
1948-49 岩本薫 先相先に打込む
1950-51 橋本宇太郎 先相先維持
1951-52 藤沢庫之介 先相先に打込む
1952-53 藤沢庫之介 向先に打込む
1953-54 坂田栄男 向先に打込む
1955-56 高川格 先相先に打込む
「最後の打ち込み十番碁の相手となったのは、本因坊四連覇中の高川格であった。1955年7月から翌1956年11月にかけて打たれたが、やはり第八局で高川を打ち込んでいる。
打ち込み十番碁は十六年もの長きにわたって続いたが、高川が敗れた後は、相手となる棋士は、もはや誰もいなくなった。その意味でも、川端のいう「孤独」の棋士であった。日本最強の棋士であることは間違いなかった。囲碁界ならば、「名人」の称号を贈っても何ら不思議はなかった。
『鎌倉十番碁のとき二十五歳だった私は、このとき四十二歳になっていました。この歳月を考えると、感慨無量のものがありました。仮に十番碁でだれかに打ち込まれていたら、私の棋士人生もそれでおしまいだったような気がします。ただ、囲碁界には古来、頂点を極めた技量を誇る棋士に名人の位を与える習わしがありました。しかし、私に名人位を贈るという話は、ついぞ一度も出たことがありません。』(呉清源)」
(P.294-5)
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「囲碁界には古来、頂点を極めた技量を誇る棋士に名人の位を与える習わしがありました」と呉清源が述べているのは、徳川時代の棋界のあり方を正しく伝えるものである。当時、一時代に名人は一人だけとされ、該当者がなければ敢えて不在のままに置かれた。真の強者の冠であった。
「名人」の称号を求めては、熾烈な競争があり政治がらみの暗闘もあったが、文化文政期に活躍した本因坊元丈と安井知得は互いの技量を認め合い、相手をさし置いて自分が名人に推されることを、いずれの側も望まなかったという。囲碁史を飾る美談とされる。
いっぽう呉清源は当時の一流棋士の全てを打ち込み、昭和前半において一頭地を抜く別格の存在だった。その彼にとって最大の不幸は、1961年にバイクに撥ねられ、命はとりとめたものの深刻な後遺症が残ったことである。折しも、読売新聞社が1957年以来の日本最強決定戦(呉は第1期と第3期に第一位)をあらため旧・名人戦を開始した年であり、この頃から新聞社主催の各種棋戦が開催されるようになった。
交通事故後はっきり棋力と意欲の落ちた呉は、これら新時代のタイトルに縁がなく、そのため記録上は無冠に見えるのである。しかし、戦争をまたぐ難しい時代に15年にわたって最強者として君臨し続け、今日AIに再評価されるような数々の名手・名棋譜を遺した功績は比類がない。その呉清源を名人と称える機を逸し、それどころか謎の圧力に屈して棋院から除籍した昭和棋界の了見が残念である。
とはいえ、呉清源という存在はそんなことで翳みはしない。彼にとって、碁はただ勝負を決するだけのものではなかった。
【呉にとって碁とは何か】
「取材が終わると、川端は色紙を取り出し、「無」という文字を書いて贈った。
たしかに呉清源は囲碁の世界の中に宇宙を見ていた。碁盤そのものが東西南北の四方と上下の大地を表わすものだと考えていた。碁盤には縦横十九路があり、天元を中心に三百六十一の交点が存在する。呉清源はこれが方角を表わしたり、史記を表わしたりするのだと考えていた。
『盤上は宇宙です』と、私のインタビューにも答えていた。
『もし棋士になっていなかったら、私は宗教家になっていたのではないでしょうか』とも話していた。だから、囲碁を勝負事などとは考えず、陰陽の調和の理想世界だと考えていた。例えば、このように私に語った。
『古代中国の陰陽思想の理想とは、陰と陽の調和にありますから、碁もまた調和をめざすべきものだと考えます。盤上のすべての石の働きを引き出す一手こそ最善で、それが調和を意味します。必然的に碁盤全体の釣り合いを考えつつ、石を置くことになります』
そのような思想で碁を打つ者など、日本の囲碁界ではだれもいなかったであろう。川端のいう「宗教の人づきあいの方に、こころだのみがあるのかもしれない」というのは、そのような世界をいうのであろう。」
(P.294)
「そのような思想で碁を打つ者など、日本の囲碁界ではだれもいなかった」には異論がある。著者桐山氏が自身で碁を打つかどうか聞いてみたいところでもあるが、それはさておき最後にもう一カ所。
「私は二〇〇〇年に初めて呉清源にインタビューをしたが、そのときしきりに強調していた言葉が「調和」であった。「中和」とも言った。中国語では調和と同じ意味になるという。囲碁の世界も、国際政治の世界でも、「中和」こそめざす理想なのだと言葉を強くして語ったのである。
『古代中国で最も尊ばれたのは「中和」です。「中」というのは、陰陽思想で、陰陽どちらでもない、まさに無形のものです。無形の「中」が形となるときは「和」となって現れます。「道」というのも、これは法則ですから、無形です。形に表れるときは「徳」となって現れるのです。」
そんな哲学を熱っぽく語り、そして「中」の文字について、こんな説明をするのであった。
『「中」という文字は、一本の棒で突き刺した形をしており、棒によって、左右に分けられた部分が陰と陽を示しています。要するに「中」とは、陰陽の釣り合いがとれた一点のことで、最善を謂するのです。』
呉清源はこの「中」の一点を求めて碁盤の上に石を置き、また心の修行を続けてきたのである。」
(P.315)
「中」という文字は、一本の棒で突き刺した形をしており・・・
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