散日拾遺

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黄英または菊の姉弟 ~ 聊斎志異と清貧譚

2020-04-21 10:56:43 | 読書メモ
2020年4月21日(火)
 「聊斎志異」を岩波少年文庫版で少しずつ読んでいる。侮るなかれ、すごすぎる原作を敬遠して読まずに終わるより、平易で質の高いダイジェスト版でともかく読む方がよほど良い。とりわけ翻訳物はどうせオリジナルにこだわるなら、ダイジェスト版の次に原書を読んだらよいのである。
 収載された31話中の第10話が『菊の姉弟』、原題を『黄英』という。主人公女性の名であるが、あるいは「菊」という意味があるだろうか?すぐには調べあたらぬものの、菊科のタンポポを「蒲公英」と書くことなど、それらしい気配がある。英は「はなぶさ」と読むのだったな。
 道士・動物変化・亡者といった、ぎとぎとした話の多い中で珍しくも颯爽たる菊がテーマ、しかもわりあい長い。清貧をめぐる議論や夫婦の駆け引きなど、内容も豊かである。これなどは原文で読んでみたいとサーチしていたら、思いがけず太宰に行き当たった。
 面白いことがあるものだ。そして見事な、書き手ならではの翻案である。
 太宰は好きになれずにいたがこの一篇で宗旨替え、しても良いような気になった。下記のリンクに飛ぶ前に、聊斎志異のオリジナルを少年文庫版ででも読んでおきたい。それが太宰自身の順序でもあった次第で。

  

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クロイツェル・ソナタ

2020-04-21 07:37:30 | 読書メモ
2020年4月17日(金)
 お達し通り、日用品の買い物以外の私用外出はいっさい控え、散歩に出る時も人の多い桜の樹下を避けているが、週一日の外来診療は強制力をもって止められない限り、止めるわけにいかない。
 朝の空いたホームで長身の男性の後ろに並んだところ、振り返った視線に非難の色があった。もう少し離れろと言いたいのであろう、おとなしく一歩退いた。
 患者さんもわかっていて、今はずいぶん来院者が少ない。この状況下でやってくるのは、薬であれ面接であれ切実な必要を感じている人々がほとんどで、そのことが診療を進めるうえで大事なヒントにもなる。

 往復の電車で『クロイツェル・ソナタ』に読みふけった。先月の誕生日に贈られたものだが、その発想がちょいと洒落ている。

 つまり・・・
    

 という仕掛けである。ヤナーチェクにこういう作品があるとは知らなかった。左二者の関係はよく知られているが、実を言えばトルストイのは読んでいない。ドストエフスキーが真に非凡、トルストイは偉大だが凡庸と、アサハカにも思い込んでいた痕跡である。
 最初に『復活』を読んで楽しめず(高校生が読んで楽しいはずがない)、次に『戦争と平和』を読んで大いに驚いたが、終章の歴史観やらベズーホフ夫妻のおさまりかえった様子やらに興が冷めた。『イワン・イリッチの死』は授業の好素材、『光あるうちに光の中を歩め』等の短編や民話集は、折に触れて読み直すという具合。
 『アンナ・カレーニナ』と『クロイツェル・ソナタ』は今日まで読まずじまいで、それを知ってか知らでか息子の茶目っ気である。

***

 で、お初に読んでみて、これは引き込まれた。たとえば、旅先で受けとった妻からの手紙に微かな疑念を抱いた主人公が、矢も楯もたまらずモスクワに引き返す道中の描写の見事なこと!
 それにしても、この内容の小説に『クロイツェル・ソナタ』と銘打つあたりが、トルストイ翁のまことに不思議なところである。作者自身の「あとがき」というものがくっついており、この作品で伝えたかったことの要旨を5項目にわたって解説しているのだが、小説の道徳的な主題を理屈っぽく解説して面白いはずがない。その間、小説そのものの面白さは、説教じみた御託宣をはるかに乗り越えてしまっている。その乗り越えた部分を象徴するのが『クロイツェル・ソナタ』という音楽だから、このタイトルを付けることによって、著者は自分自身が大まじめで開陳する道徳的な動機を自らせせら笑っているに等しい。

 「たとえば、このクロイツェル・ソナタ、殊に最初のプレストですね、一体あれをデコルテを着た婦人たちの間で、普通の客間の中で弾いてもいいものでしょうか?あのプレストを弾いて、後でお客の相手をし、それからアイスクリームを食べたり、新しい市井の風評を語り合ったりしていいものでしょうか?ああいう曲は、一定の厳粛な意味のある場合にのみ奏すべきで、しかもその音楽に相当した一定の行為を必要とする時に限ります。つまり、演奏された音楽の呼びおこす気分に従って、行為しなければなりません。その反対に、行為をもって表現されないエネルギイや感情を、やたらに時と場所を考えずに呼びさましたら、それは恐るべき反応を示さないではおきません。少なくとも、わたしにはこの曲が恐ろしい作用を及ぼしました。」
(米川正夫訳、岩波文庫版 P.115-6)

 このように矛盾を孕んだトルストイという存在を解釈するのに、とても役だった誰かの文章があり、そこではまずギリシアの詩人アルキロコスの言葉が紹介される。
 「狐はたくさんのことを知っているが、ハリネズミはでかいことを一つだけ知っている」
 この箴言を、引用者は次のように解釈する。
 「一方では、いっさのことをただ一つの基本的なヴィジョン、ある程度論理的に、またはある程度明確に表明された体系に関連させ、それによって理解し考え感じるような人々 ー ただ一つの普遍的な組織原理によってのみ、彼らの存在と彼らのいっていることがはじめて意味を持つような人々と、他方では、しばしば無関係でときには互いに矛盾している多くの目的、もし関連しているとしてもただ事実として、なんらかの心理的ないし生理的な理由でかんれんしているだけで、道徳的、美的な原則によっては関係させられていない多くの目的を追求する人々とがあり、その両者の間には、大きな裂け目が存在している。」
 この解釈に従って、論者は第一の部類の人々をハリネズミ族、第二の部類の人々を狐族と命名する。
 ダンテをはじめとして、プラトン、ルクレティウス、パスカル、ヘーゲル、ドストエフスキー、ニーチェ、イプセン、プルーストは「程度の差こそあれ」ハリネズミ族。
 シェークスピアを筆頭に、ヘロドトス、アリストテレス、モンテーニュ、エラスムス、モリエール、ゲーテ、プーシキン、バルザック、ジョイスは狐族。
 これだけの準備をしたうえで、論者は次のように述べる。
 「私が提出したい仮説によると、トルストイは本来は狐であったが、自分はハリネズミであると信じていた。」

 けだし名言、『クロイツェル・ソナタ』という作品とこれをめぐるちょっとした騒動が、この仮説を支持する申し分のない証拠となっているように僕には思われる。

***

 出典について ~ 「トルストイ=自分がハリネズミだと信じ込んでいた狐」説をどこで読んだか。
 僕はてっきり、トーマス・マンの『ゲーテとトルストイ』(山崎・高橋訳、岩波文庫版)だと思い込んでいた。ところが手許の同書を見直してみても、この説にはまったく触れていないのである。
 狐につままれたような、それともハリネズミにつつかれるような不安と焦慮に、しばらく苛まれた。自分の灰色の脳細胞はどこへ行ってしまったんだろうか・・・
 そして思い当たった。
 アイザイア・バーリン『ハリネズミと狐 ー 『戦争と平和』の歴史哲学』(河合秀和訳、岩波文庫)、これだ!



 「彼が本来そうであったものと、自分でそうであると信じていたものとの対立は、彼の歴史観、彼がもっとも見事でもっとも逆説的な文章を捧げた歴史観の中で、きわめて明瞭にその姿を現している。このエッセイは、彼の歴史理論を論じ、彼が抱いていた見解を現に抱くようになった動機と、その源泉と思われるものを考えようとする試みである。要するにそれは、トルストイの歴史に対する態度をまじめに考えようとする試み、彼自身が自分の本の読者に真面目に考えてほしいと思ったとおりに、真面目に考えようとする試みである。しかしトルストイとわれわれでは、その理由にいささかの違いがある。彼が全人類の運命との関係で考えようとしたのにたいして、われわれはむしろ一人の天才に光をあてるために、それを試みるのである。」
(上掲書 P.12-3)
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