2020年4月12日(日)
マグダラのマリアが弟子達のところへ駆け込んだ。
「主が墓から取り去られました。どこにいるのか、わたしたちには分かりません。」
シモン・ペトロともう一人の弟子が墓へ急行するが、為すところなく帰ってくる。マリアは二人が立ち去った後も、墓の外で立ちつくして泣き続けた。ふと気づくと墓の中に、白衣の男が二人座っているのが見えた。
「わたしの主が取り去られました。どこにいるのか、わたしには分かりません。」
そして背後に立つイエスに、相手が誰とも知らぬまま訴えた ~ エマオ途上の顕現(ルカ24章)を思わせる筆法である。
「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
(ヨハネによる福音書 20:2-15より)
「主が取り去られました」と、マリアは二度にわたって訴えている。実際には何度も繰り返して訴えた、その初めのものと終わりのものが抜き出されているのであろう。
初めマリアは「主が墓から取り去られました」と言い、「どこにいるのか、わたしたちには分かりません」と言った。
後にマリアは「わたしの主が取り去られました」と言い、「どこにいるのか、わたしには分かりません」と言った。
ηραν τον κυριον εκ του μνημειου και ουκ οιδαμεν που εθηκαν αυτον.
ηραν τον κυριον μου, λαι ουκ οιδα που εθηκαν αυτον.
繰り返し訴えるにつれ、マリアの苦悩は微妙に姿を変え焦点を移していく。「わたしたちの主」が「墓から取り去られた」ことを仲間に伝える初めの形(喪失の共有)から、「わたしの主」が「わたしから取り去られた」ことを謎の相手に泣訴する後の形(喪失の個別化)へ、叫びは狭く深くマリアの内に閉じられる。もはや「わたしたち」ではなく、「わたし」の問題なのだ。シモン・ペトロも愛弟子ヨハネも去らば去れ、わたしマリアがあの方を引き取るのだから。
「ラボニ!」「触れてはならない」 ー かつてH姉が「至高のメロドラマ」と呼んだ場面がこの後に続く。
"Noli me tangere" by Александр Андреевич Иванов(1858)
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イースターに礼拝にあずかれなかったのは信徒歴36年で初めてのことではないかと思う。この不全感と閉塞感を少なくとも世界で数億人が共有していることだろうが、その色合いと陰翳は数億通りに個別である。
数日前にNT先生がお便りをくださり、御自身の作品の中から数点おくってくださった。お名前を明かすのは、おゆるしを得た後のこととして。
「実は私も色覚異常者の一人です。しかし神は、色はだめでも線(デザイン)を感動をもってキャッチ出来る賜物を与えて下さっています。とくに創造主なる神のデザインを。人間は直線がスキ、しかし神は生命の曲線がおすきです。」
空の墓に、生命の曲線に、祝福あれ!
Ω