2020年4月22日(水)
・・・ということは、
陸判官は朱爾旦の腸(はらわた)を取り替えることによって、朱の心を改善したのだから、心は腹に宿ると考えられているわけである。また、心の入れ替えによって朱の作文能力が向上したのだから、心はここでは「知性の座」というほどの意味である。そして「腹=心」を入れ替えても、朱の人柄や同一性は何ら変更を受けていない。
さらに、朱の妻の首(頭部)がすげ替えられた話。顔立ちの改善を希望したところ、請け合った陸判官は頭部全体をすげ替えてしまったが、だからといって人格や同一性の交代が起きたわけではない。
「朱の妻が洗い終わった顔をあげると、まったく別人になっていたので、小間使いは二度びっくり。朱の妻も鏡を取って自分の顔を映して見、わけがわからず、おろおろするばかりだった。」(P.150)
首は顔であって頭(精神)ではないのである。
とすると『聊斎志異』の世界において、人の心(我らが使っている意味での)や同一性 ~ 「たましい」と言い換えても良いか ~ が宿るのは人体のどの部分なのか?
それとも、それは人体のいかなる特定の部分にも宿りはしない、別次元の現象と考えられているのか?
いよいよ面白くなってきたが、いくらかでもマジメに追うなら次は原語に当たらねばならず、書かれた時代にも留意が必要である。蒲松齢は清初の人、1640年(崇禎13年) - 1715年(康熙54年)とあり、『聊斎志異』は主として作者の30代に執筆されたらしい。
「首は顔であって知性の座ではない」ということで思い出すのが、鉄腕アトム。アトムのハート型の人工頭脳は位置もちょうど心臓のあたりにあり、あのトンガッチョの頭は少なくともそういう働きはしていない。美少女の助けに応じてアトムが夜な夜な南海に飛んでいく話では、毎晩のように頭を壊して帰ってきては、お父さんに小言を言われながら新品の頭をつけてもらっていたっけ。
なまじ医学が進歩し脳死のこともあって、すっかり「頭=脳」偏重になった今日の我々だが、果たしてそこがゴールなのかどうか。
そうそう、アトムの中にもう一つ、シャーロック・ホームスパンという探偵が登場し、ケガをするごとに身体のパーツが人工物で置き換えられ、最後に残った頭も大けのため人工頭脳に置き換えられるというのがあった。ホームスパン氏はもともとロボット嫌いだったから、どうなることかと周囲が案じるのをよそに、蘇生回復した彼がアトムとの交流を経て、全身人工物になった自分を恥じることなく挨拶する、そんな流れだったと思う。
ホームスパン氏が人間かロボットかという問題よりも、頭脳が人工に置き換わっても同氏のアイデンティティが一貫して保たれていることのほうが、小学生の自分には面白かった。
感じ方は今も同じである。
***
【緑衣の人】
干璟は字を小宋といい、益都の人である。寺の一室を借りて受験勉強をしていたが、ある夜も書物をひろげて音読していると、窓の外で、
「干さま、お勉強ですこと」
という女の声がした。こんな山深いところに女がいるはずがないのにと、怪訝におもっているところへ、一人の女が笑いながら入ってきた。
「お勉強ですわね」
驚いて立ち上がると、女は足もとまでの長い緑の衣をまとった、この世に二人とないような美人だった。
きっと幽鬼だとおもったので、住まいはどこかと厳しく問い詰めたが、
「わたくしがあなたを取って食うような者ではないことはご存じのくせに、そんな意地悪はおやめになって」
といわれて、憎からずおもい、泊って行くよう誘った。彼女の腰は細くくびれて、今にも折れそうだった。
(後略 P.159-160)
わかった!
愚鈍な読み手で、ストーリーの先読みなど大の苦手だが、この美人の正体はさすがにここで見通せた。しかし緑衣ですか、緑かなぁ、この生き物は・・・?
何度痛い目にあっても憎く思えない、緑衣の人の大の贔屓がここにいる。やって来ないかな、美味しいお酒があるのにな。
蒲 松齢(ほ しょうれい、Pu Songling): 崇禎13年4月16日(1640年6月5日) ‐ 康熙54年1月22日(1715年2月25日)。清代の作家。字は留仙または剣臣、号は柳泉居士。また聊斎先生と呼ばれた。
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