散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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緊急事態宣言

2020-04-07 15:31:15 | 日記
2020年4月7日(火)

 「やらないで後悔するより、やって後悔する方が良い」
 概ね同感だし実際そのようにしてきたが、例外もいろいろとある。フロイトが『罪と罰』の愛読者に対して警告したのは一例。
 また、この格言は個人の信念や encouragement に限定すべきもので、共同体の決断に安易に援用すると偉いことになる。たとえば「戦争」など。

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 緊急事態宣言がきょう出される見込みで、そうなると「生活必需品の供給には支障がない」ことをどれほど強調しても、買いあさりに走るお利口さんが一定数出現することは間違いない。「だって不安なんだもん」と居直るのはお止めいただこう。「不安」を免責事由にできるのは、ホンモノの不安症状にさいなまれる闘病者だけだが、この人々の多くは買いあさりに走るエネルギーなど持ってはおらず、出遅れてつらい思いをするばかりだ。困ったちゃんの大多数は、病者ではなく健常者と数えられる人々である。

 20年越しの摂食障害を抱えてきた女性Aが、買い物先で途方に暮れた。豆腐が店にないのである。行きつけのスーパーから始めて近隣の店をいくつか回ったが、どこにも一つも残っていない。彼女が安心して摂取できる食材は限られており、中でも豆腐はか細い健康を支える大黒柱である。それがどこにも見当たらないという事態を、思春期以来初めて経験したという。
 「お豆腐は日持ちがしないのに、どうしてって思いました。たまたまどこの家でも、お鍋か湯豆腐をすることにしたんでしょうか。あの日は暖かかったんですけれどね。」
 日持ちも何も考えてはいない、あるものを買える時に買えるだけ買おうとするから、何を買ったかにも気づかず店の棚から冷蔵庫に運び込むのであろう。この種の無思慮で粗暴な行為が、鳥の餌ほどの少量の食材を噛みしめて命をつなぐ人から、貴重な糧を取り上げるのだ。せめて買ったものを捨てることなく、食べきり使いきったことを願う。

 昨日はMSF(国境なき医師団)のニューズレターが届いた。イラクとスーダンの子どもたちの窮状が伝えられており、痛ましいのは世界の注目が新型コロナばかりに向けられることにより、こうした辺縁事象へのさらでも乏しい関心が失われることである。
   

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 コロナ騒動の与える害が社会的弱者にとっていっそう深刻であることは疑いないが、そんな中で意外な効果を一つ発見した。
 精神科の患者さんには、春が苦手という人が多い。木の芽時がどうこうという生理的な話よりも、この季節が新社会人や新入生の門出の時であることに関わりが深いことである。晴れやかな表情で新生活に飛び込んでいく人々にメディアは焦点を当て、賑々しく報道する。見聞きするにつけ、引き比べて自分の惨めで至らないことが痛感され、いっそうつらくなるというのである。ちょうどその季節に「外出自粛」が重なった。
 「皆さんには申し訳ないけれど、今年はずいぶん楽です。」
 済まなさそうに語った人が一人ならずある。長らく日陰で辛抱している人々なれば、こうした免荷を少しぐらい楽しんだところで、責められる筋合いはないであろう。

 同様の効果は、実は僕自身にも及んでいる。忙しいのが苦手、人混みが大嫌いという都市生活不適応者にとって、公然と引きこもっていられるこの日頃はホッとするところがなくもない。
 電車に乗っての外出は診療に出かける時に限定しているが、ガランと空いて窓の開いた車内は、読書に集中できる快適な移動書斎になっている。
 森田療法の導入期には、絶対臥褥を命ぜられる。小賢しく能動することを禁じられ、手も足も出せないダルマさん状態に置かれることによって、矮小な精神の妄動過熱がリセットされる仕組みであろう。森田神経質と称されるある種の自意識過剰状態には、とりわけ有効なショック療法である。
 謎の病原体によって、社会全体が絶対臥褥に置かれた現状。長らく続いてきた神経質から我に帰り、我を取り戻す機会として作用することを願う。律法によっては安息を守ることのできなくなった人類への、強制的な安息命令。真の緊急事態宣言は神から出ている。

Ω


監獄の誕生 ー 朝刊の記事から

2020-04-07 07:55:30 | 日記
2020年4月6日(月)

 フーコーの『監獄の誕生』を2002~03年に512日間東京拘置所にいた時に読みました。独房で監獄について勉強するのは、普通の人にはできない特権でした。
 1987年から8年間滞在した旧ソ連・ロシアには、フーコーの本は体制が崩壊する90年ころに入ってきた。インテリは皆いかれていた。ソ連は「パノプティコン」ではないのかと。私は「ふ~ん」と聞いていましたが、独房で読んだ『監獄の誕生』は面白かった。
 そのころ公判が開かれ、私の事件で取り調べを受けた外務省の同僚や商社の人たちが、検察の主張に自ら迎合していきます。嫌なら調書に署名しなければいいのに、なぜ彼らは迎合するのか。フーコーによれば、監獄で収容者は監視の目を意識することで自らを監視し、自分の良心の声を聞く。そして自白によって自らを断罪する。裁判はその通りの展開となり、謎がスパッと解けました。
 私が迎合しなかったのはなぜか?役所も監獄と同じ構造だったから。もう一つは私が哲学や思想など「外部」に触れていたからでしょう。
作家・元外務省職員 佐藤優さん(朝日新聞 4月6日朝刊19面)

(引用者註: パノプティコン = panopticon < pan-opticon すなわち全方位の被収監者を一望の下に監視できる建築構造。被収監者の側では「全方位から」監視されていると感じられよう。)
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 『狂気の歴史』は学生にも勧めていた。「良心」という言葉は同調圧力に抵抗する聖なる源としてとっておきたい気持ちがあるが、仮借なきフーコーは良心もまた同調圧力の手先として機能することを暴いてみせる。
 これに抵抗する力の淵源として佐藤氏は二つの条件を挙げているが、ここはやや謙遜しておられるかな。同じく役所に勤め、同じく哲学や思想に触れていても、迎合する者はいくらでもいる。勤め方・触れ方を規定する、さらなる μυστεριον が当然ながら存在する。

   

Ω