2014年3月18日(火)の書き残し。
新聞屋さんが「医は仁術」展の入場券を2枚くれた。折良く長男が神戸から戻っていたので、一緒に出かけてみた。国立科学博物館である。春一番の吹き荒れる午後、2時間あまりがすぐ過ぎた。
実際には江戸時代の医学・医療事情といったもので、資料は興味深いものが多々あった。漢方といっても既に純然たる中国流を離れ、日本人がかなりの程度までカスタマイズしたものである。時とともに分化して独自の諸流派を生むのは自然の流れであり、中でも従来の思弁的な「理論」に飽き足りぬ人々が、より古い時代の「理論」に立ち戻りつつ実証性を高めようとした経緯は、儒教における「古学派」、あるいは洋の東西を問わず見いだされる温故知新の傾向と照応するようで面白い。
やはり圧巻は、蘭学導入に伴う日本人の実証性への覚醒過程だが、これも受け入れ側に準備状態が熟していたからに違いない。杉田玄白や山脇東洋の名は象徴的だが、彼らばかりが突出していたわけではない。(時期としては後者の方が早い。山脇東洋ら、1754(宝暦4)年、京都。杉田玄白ら、1771(明和8)年、江戸。)
1819(文政2)年に、中津藩で九州初めての腑分け(解剖)が行われた。(福沢諭吉を生んだ中津、不思議な進取の土地と見える。)
1822(文政5)年には仙台藩で腑分けが行われ、こちらは婦人の解剖として初のものという。
長崎から入ってくる刺激が京都や江戸で発火し、それらが同心円状に(?)波及・浸透して、九州と東北でほぼ同時に反応を起こす。幕藩体制下でも人の好奇心や知的欲求は止めがたく広がり、タコツボを横断する新しいコミュニティの到来を予告するようだ。
もうひとつ驚くのは、こうした情報が受肉していく速さと、伝え方の工夫の豊かさだ。論より証拠を末尾に載せておく。驚いたことに「フラッシュ禁止だが撮影はOK」、ということは撮影画像を個人ブログに載せるのも「あり」と解釈されるので。
なお、素材はとても良いのだが、展示の方向性にやや首を傾げるところがある。
「日本の医道は本来仁術であり、常にそうであった」ということが反復連呼されるが、いっこうにエビデンスが示されないのでかえって嘘くさい。「日本の医療はすべての人々に開かれていた」と書かれた直後に、「医者にかかれるのは金持ちだけで、一般庶民は売薬が頼りだった」とあるという具合。
「昔、医は仁術ではなかった」と喝破する、なだいなだの筆法を懐かしく思い出した。
入り口のオープニング映像はまったく無意味で「大沢たかおの無駄遣い」(長男)、出口の8分間アニメはステレオタイプなお涙頂戴で、展示の効果を高めるどころかすっかり白けかえらせる。訪問者の知能程度をよほど低く見積もっているのかしらん。
内容は医療制度の話ではなく、医療技術や医学思想の移入と継受の物語なのだから、それにふさわしいタイトルにすれば良いのに、何をどう勘違いしたんだか。
以下、画像
*****
会場案内
「解体新書」に触発されて(?)製作された「解体人形」
内臓の取り外し部品がついて精密だ。
「解体人形」の産科版。
なお、胎児は「頭部を下」が正常体位であることを指摘した産婆さんがあり(あるいは産婆は皆、経験的に知っていた?)、杉田玄白がこれを記載したのが1804年だか何だかで、これはヨーロッパ医学の中で同じことが発見されたのにさほど遅れていないんだそうな。
全身の骨格標本。よくできている。
「肋骨、一対足りなくない?」
「そう思っただろ、よく見たらちゃんと12対あるんだよ」
「マジ?・・・・ほんとだ。」
「内臓人形」
これが薬屋の店頭に宣伝用に展示されたというんだから、江戸庶民文化は侮りがたい。
新聞屋さんが「医は仁術」展の入場券を2枚くれた。折良く長男が神戸から戻っていたので、一緒に出かけてみた。国立科学博物館である。春一番の吹き荒れる午後、2時間あまりがすぐ過ぎた。
実際には江戸時代の医学・医療事情といったもので、資料は興味深いものが多々あった。漢方といっても既に純然たる中国流を離れ、日本人がかなりの程度までカスタマイズしたものである。時とともに分化して独自の諸流派を生むのは自然の流れであり、中でも従来の思弁的な「理論」に飽き足りぬ人々が、より古い時代の「理論」に立ち戻りつつ実証性を高めようとした経緯は、儒教における「古学派」、あるいは洋の東西を問わず見いだされる温故知新の傾向と照応するようで面白い。
やはり圧巻は、蘭学導入に伴う日本人の実証性への覚醒過程だが、これも受け入れ側に準備状態が熟していたからに違いない。杉田玄白や山脇東洋の名は象徴的だが、彼らばかりが突出していたわけではない。(時期としては後者の方が早い。山脇東洋ら、1754(宝暦4)年、京都。杉田玄白ら、1771(明和8)年、江戸。)
1819(文政2)年に、中津藩で九州初めての腑分け(解剖)が行われた。(福沢諭吉を生んだ中津、不思議な進取の土地と見える。)
1822(文政5)年には仙台藩で腑分けが行われ、こちらは婦人の解剖として初のものという。
長崎から入ってくる刺激が京都や江戸で発火し、それらが同心円状に(?)波及・浸透して、九州と東北でほぼ同時に反応を起こす。幕藩体制下でも人の好奇心や知的欲求は止めがたく広がり、タコツボを横断する新しいコミュニティの到来を予告するようだ。
もうひとつ驚くのは、こうした情報が受肉していく速さと、伝え方の工夫の豊かさだ。論より証拠を末尾に載せておく。驚いたことに「フラッシュ禁止だが撮影はOK」、ということは撮影画像を個人ブログに載せるのも「あり」と解釈されるので。
なお、素材はとても良いのだが、展示の方向性にやや首を傾げるところがある。
「日本の医道は本来仁術であり、常にそうであった」ということが反復連呼されるが、いっこうにエビデンスが示されないのでかえって嘘くさい。「日本の医療はすべての人々に開かれていた」と書かれた直後に、「医者にかかれるのは金持ちだけで、一般庶民は売薬が頼りだった」とあるという具合。
「昔、医は仁術ではなかった」と喝破する、なだいなだの筆法を懐かしく思い出した。
入り口のオープニング映像はまったく無意味で「大沢たかおの無駄遣い」(長男)、出口の8分間アニメはステレオタイプなお涙頂戴で、展示の効果を高めるどころかすっかり白けかえらせる。訪問者の知能程度をよほど低く見積もっているのかしらん。
内容は医療制度の話ではなく、医療技術や医学思想の移入と継受の物語なのだから、それにふさわしいタイトルにすれば良いのに、何をどう勘違いしたんだか。
以下、画像
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会場案内
「解体新書」に触発されて(?)製作された「解体人形」
内臓の取り外し部品がついて精密だ。
「解体人形」の産科版。
なお、胎児は「頭部を下」が正常体位であることを指摘した産婆さんがあり(あるいは産婆は皆、経験的に知っていた?)、杉田玄白がこれを記載したのが1804年だか何だかで、これはヨーロッパ医学の中で同じことが発見されたのにさほど遅れていないんだそうな。
全身の骨格標本。よくできている。
「肋骨、一対足りなくない?」
「そう思っただろ、よく見たらちゃんと12対あるんだよ」
「マジ?・・・・ほんとだ。」
「内臓人形」
これが薬屋の店頭に宣伝用に展示されたというんだから、江戸庶民文化は侮りがたい。