2014年3月11日(金)
○ 存以甘棠 去而益詠
甘棠とは「やまなし」のことだそうだ。
存(い)ける時は、甘き梨をもってす。
去(し)しては、詠(しの)びらるることを益す。
「しのびらるる」って、間違いじゃないんだね。
[李注]
『毛詩』に「甘棠篇」あり。召公(周の武王の弟)は西伯となり、いつも甘棠(やまなし)の木下に座ってさまざまな訴えを裁き、道理に適ったやり方で人々を治めた。人々はその徳の及ぶのを楽しんだ。召公が去って後、皆はその徳を偲び、木を伐らなかった。
甘棠、伐ることなかれ、召伯のやどりしところ・・・
***
両親が松山で出席する教会のM牧師、週報の寸言が註解書にとらわれない感じで新鮮である。
◇ 『美しい世界』(2012年6月17日)
「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。(創世記 1:11)
植物は、神様が直接お造りになったのではありませんでした。大地がその役目を託されたのです。大地の忠実な奉仕によって、この世界に生命が誕生し、美しい世界が広がっていきました。
◇ 『愛されていることを信じる』(2012年4月22日)
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ福音書 20:27)
トマスが疑っていたのは、主の復活ではなく、主の愛でした。
「どうして復活された主は私にだけ会いに来てくれないのか。それは私が愛されていないからだ」と思っていたのです。しかし、主はトマスのところに来てくださり、そうではないことを優しく教えてくださいました。
「(愛されていることを)信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。
M師の読み方の特徴は、あらゆる場面にコミュニケーションを見ていることだろう。伝え、託し、期待し、反応し、応答する、その連鎖が人生であり歴史である、そのような姿勢が彷彿される。共感的な読み方といってもよい。
これらの解釈が個別的に正しいかどうかは分からないし、反論もあり得ることと想像する。それでも、こうした読みを許すことの中にこそ、教典の汲み尽くせない豊かさはあるのだ。理屈だらけの干からびた神学からは決して得られない、みずみずしい命の滴りである。
○ 存以甘棠 去而益詠
甘棠とは「やまなし」のことだそうだ。
存(い)ける時は、甘き梨をもってす。
去(し)しては、詠(しの)びらるることを益す。
「しのびらるる」って、間違いじゃないんだね。
[李注]
『毛詩』に「甘棠篇」あり。召公(周の武王の弟)は西伯となり、いつも甘棠(やまなし)の木下に座ってさまざまな訴えを裁き、道理に適ったやり方で人々を治めた。人々はその徳の及ぶのを楽しんだ。召公が去って後、皆はその徳を偲び、木を伐らなかった。
甘棠、伐ることなかれ、召伯のやどりしところ・・・
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両親が松山で出席する教会のM牧師、週報の寸言が註解書にとらわれない感じで新鮮である。
◇ 『美しい世界』(2012年6月17日)
「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。(創世記 1:11)
植物は、神様が直接お造りになったのではありませんでした。大地がその役目を託されたのです。大地の忠実な奉仕によって、この世界に生命が誕生し、美しい世界が広がっていきました。
◇ 『愛されていることを信じる』(2012年4月22日)
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ福音書 20:27)
トマスが疑っていたのは、主の復活ではなく、主の愛でした。
「どうして復活された主は私にだけ会いに来てくれないのか。それは私が愛されていないからだ」と思っていたのです。しかし、主はトマスのところに来てくださり、そうではないことを優しく教えてくださいました。
「(愛されていることを)信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。
M師の読み方の特徴は、あらゆる場面にコミュニケーションを見ていることだろう。伝え、託し、期待し、反応し、応答する、その連鎖が人生であり歴史である、そのような姿勢が彷彿される。共感的な読み方といってもよい。
これらの解釈が個別的に正しいかどうかは分からないし、反論もあり得ることと想像する。それでも、こうした読みを許すことの中にこそ、教典の汲み尽くせない豊かさはあるのだ。理屈だらけの干からびた神学からは決して得られない、みずみずしい命の滴りである。