散日拾遺

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冬の庭

2018-01-01 23:35:58 | 日記

2018年1月1日(月)

 諸事情で郷里での越年になった。夏は愛媛、冬は東京を長年の習慣にしていたので、ずいぶん久しぶりのことである。幼少期には正月にもよく帰省したが、これは母の実家で過ごすことが多かったので、だだっ広い父の家で新年を迎えるのは案外初めてかもしれない。どんなに寒いかと覚悟して戻ったがさほどではなく、逆に東京の冷え込みをニュースで見てテレビ桟敷で凍えている。

 帰るに際して楽しみだったのは冬の庭のこと。蜂にも蚊・虻にも悩まされず、熱暑に喘ぐこともない。庭木は冬枯れで姿が見やすく、余計な葉がないから剪定が楽である。現に花を咲かせている夏の枝は伐るにしのびなく、あらゆる意味で庭の手入れは冬に限る。冬に限界設定しておいて、春から秋は成長を楽しむのが基本の構えではあるまいか。

 これは期待以上に図に当たった。

 予想外に緑が多く、彩りもある。たとえば前庭の水仙、白地に濃い黄色のなじみの意匠から馥郁たる香気を放ち、寒中に凜然たる立ち姿である。球根を擁して勢い旺盛、放っておくと庭全域に拡がるので、刈らざるを得ないのが残念なところ。

   

 次に菜の花、松野町へ向かう予讃線を押し包むように黄色が生い茂っていたのは、2015年の3月半ばである。何やら覚束なげとはいえ、正月にお目にかかれるとは思わなかった。

  

 これはピラカンサ、写真は横向きだが、鈴なりの深紅の宝玉を見つめていると、そもそもどちらが上か分からなくなる。

 

 蜜柑類の金色の輝きは言うに及ばず。何てったって天下の愛媛だ。

 

 写真には捉えていないが、桜といい、トサミズキといい、アジサイといい、その他何をとっても感動的なのは、小さな冬芽の確かな成長である。見かけの不活発や停滞と裏腹に、冬という季節は力をためる準備の時、木々や草花は来たるべき開花成長をはっきり見越して歩みを進めている。田舎の自然の中では考えずとも分かること、自然から疎外されて寒暖計の数字だけを見るから、鬱陶しい寒さばかりが冬の重荷になるのである。西側のカイヅカイブキの高い枝を下ろしていたら、針葉樹特有の芳香を滲ます枝葉のそこここにカマキリの卵塊が姿を現した。人間などという余計者が邪魔しなければ、理想的な越冬の形式だったことだろう。

 縁側の手水鉢でバシャバシャと陽気な音がした。覗いてみると、暗褐色の塊が鋭い鳴き声を置いて飛び立つところ、モズか何かが水浴びに来たらしい。

 冬の庭は実に活気に満ち満ちている。

Ω


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