2025年1月14日(火)
親しいつきあいの中にも自ずとグレードがあり、家族・親族であれ知人であれ、時々でもぜひ一緒に過ごしたいと願う相手と、たまに会うのも悪くないがそれほど強く願うわけではなく、悪くないといったものの妙に気疲れするといった相手とが、いつの間にか分かれてきている。
もちろん相手の側からも同じように値踏みされているのだが、こちらの勝手な思いを自由に泳がせた場合、ユーモアがキーワードであることに今朝になって気がついた。
ユーモアを解せぬやつにはかなわない
面白いことを言うとかするとか、そういうこととは少し違う。かなり違う。具体的に言うとかするとかいうことではなく、基本的な構えの問題である。
笑うという行為自体が大きな謎(ミステリー)というべきもので、動物は笑うかどうかとか、笑う時の表情筋の動きと威嚇・攻撃のそれとは妙に似ているとか、現代日本語では粗雑に「笑う」と括ってしまうものの中に「ゑむ / smile」と「わらふ / laugh」の別があり、両者は本質的に違う行為ではないかとか、21世紀に持ち越された痛快な難問が数多くある。
その笑いの中でもユーモアはまた別格の謎というべきもので、端的に言ってそれが spirituality と深く結びついていることは疑いない。
とはいえユーモアを定義しようというのはそもそもバカげたことで、それ自体ユーモアの「構え」に反している。ナザレのイエスの顰みに倣って、例や譬えで語るほかないものだが、ユーモアが何と近しく何と疎遠であるかをあげつらうことはできそうだ。
ユーモアは、ゆとり・あそびと深く関わっている。「ハンドルのあそび」などという時のあそびで、その反対は(過度の)規則正しさ、例外をゆるさないこと、あるいは何であれ「ゆるさないこと」である。「ゆるす」という言葉は「ゆるみ」や「ゆるさ」と語源的に関連しており、「ゆるめる」ことと「ゆるす」ことは互いにきわめて近く、その双方がユーモアとつながりをもっている。
ユーモアは自己義認とは両立し難い。ユーモアという言葉のイメージにも幅があるとすれば、ここは逆に「自己義認/他者の価値下げと相携えたものは、一見ユーモラスに感じられても、真のユーモアとは似て非なるものである」としてみたい。ユーモアは「自分を笑うこと」のすぐ隣りにあるもので、以前に読んだ下記の逸話がほぼ核心を衝いている。
「何も難しいことはありませんわ」とある婦人が言った。
「わたしが『あなたはでくのぼうだ』と言ったら、それがエスプリ、
わたしが『わたしはでくのぼうだ』と言ったら、それがユーモアなんです。」
河盛好蔵『エスプリとユーモア』(岩波新書)から
となるとその系として、ユーモアは信仰の不可欠の要素ということにもなる。少なくとも「律法によるのではなく、信仰によってのみ義とされる」という型の信仰は、必然的に大きなユーモアの腕の中に抱き取られていく他はないはずのものだ。
いまはこのぐらいにしておこう。
「こんな時だからこそ、朝起きたら口角をあげましょう」
西田敏行
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