2023年5月7日(日)
来信転記:
先のメールに,私,パウロの言葉は「あなたは愛されています」と言われて慰めを得ることのできる人には通じるのだろう,と書きましたね。
以前にも,私は「愛」ではなく「大切」という言葉を使いたいということを言いました。
私は「愛されている」と言われても全く嬉しくないし,どこにその良さがあるのかも分かりません。でも,「あなたは大切な存在だ」と言われたら,すごく嬉しいです。
何が違うのかなと,もう一度考えてみました。
そして,たぶんこういうことなのかな,と思いました。
例えば,子供の落書きのような,よく分からない絵があって,1000万円という値が付いていたとします。それを見た人は,どこがいいのかさっぱり分からなくても,1000万円という値段ゆえに,傷つけないように大切に扱うでしょう。
でも同じ絵が,値も付かないままに置かれていたとしたら,その絵に心が引かれた人は大事にするでしょうが,どこがいいのか全く分からないと思う人はぞんざいに扱うと思います。
私にとっては前者が「大切」,後者が「愛」です。
パウロの基礎にあるのは,「値も付かないような私を,神様は御心に留めて大事にしてくださった」ということなのだろうと思います。
でもそれは,私にとって慰めではありません。
私自身が聖書から受け取ったのは,
「どこがいいのかさっぱり分からないけれども,神様はあなたを尊いと言う。だから,あなたは大切だ。」
・・・というメッセージです。
たぶん,私の心にパウロの言葉があまり響かないのは,この違いゆえなのではないかと思います。
先のメールに,私,パウロの言葉は「あなたは愛されています」と言われて慰めを得ることのできる人には通じるのだろう,と書きましたね。
以前にも,私は「愛」ではなく「大切」という言葉を使いたいということを言いました。
私は「愛されている」と言われても全く嬉しくないし,どこにその良さがあるのかも分かりません。でも,「あなたは大切な存在だ」と言われたら,すごく嬉しいです。
何が違うのかなと,もう一度考えてみました。
そして,たぶんこういうことなのかな,と思いました。
例えば,子供の落書きのような,よく分からない絵があって,1000万円という値が付いていたとします。それを見た人は,どこがいいのかさっぱり分からなくても,1000万円という値段ゆえに,傷つけないように大切に扱うでしょう。
でも同じ絵が,値も付かないままに置かれていたとしたら,その絵に心が引かれた人は大事にするでしょうが,どこがいいのか全く分からないと思う人はぞんざいに扱うと思います。
私にとっては前者が「大切」,後者が「愛」です。
パウロの基礎にあるのは,「値も付かないような私を,神様は御心に留めて大事にしてくださった」ということなのだろうと思います。
でもそれは,私にとって慰めではありません。
私自身が聖書から受け取ったのは,
「どこがいいのかさっぱり分からないけれども,神様はあなたを尊いと言う。だから,あなたは大切だ。」
・・・というメッセージです。
たぶん,私の心にパウロの言葉があまり響かないのは,この違いゆえなのではないかと思います。
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返信素案:
メールをありがとうございます。
なかなか難しいですね、以前から伺ってきたことの背景がなかったら理解不能に陥りそうです。
御自身を「どこがいいのかさっぱり分からず、普通は誰も目にとめない絵」に譬え、「私の目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書 43:4)という聖句を1000万円の値札に譬えられたのですね。
この事態を普通は「(神の)愛」と呼ぶのだと思いますが、あなたはそれを「大切」と呼ぶ、そのねじれが理解困難の第一の理由。
もう一つは、パウロもまたそのような意味での「大切」を語っているというのが通常の理解だと思いますが、あなたはパウロの書簡にそうした「大切」を感じない、この乖離が困難の第二の理由なのでしょう。
第一の点については、「愛」という言葉の浮き足だった感じをあらためて確認し、日本語をこよなく愛するものとしてそれが実に残念です。韓国朝鮮語は語彙の6割が漢語だそうで、固有語の存在感は日本語における大和言葉よりずっと薄いと思うのですが、「愛(する)」という言葉にピッタリの固有表現「サランヘヨ 사랑해요」をもつことばかりは何とも羨ましい。おまけに「サラン 사랑(愛)」と「サラム 사람(人)」が酷似する(同根?)という念の入りようです。
戦国末期に来朝した宣教師たちが Θεός/Deus と並んで Αγάπη/Amare の訳に腐心したあげく、『どちりな・きりしたん』で採用したのが「大切」だったのでしたか?今、手許にないので違っていたらごめんなさい。
そんなことを考えても、SS様のこだわりは大いに故あることと思います。
第二の点については、ごめんなさい、まだよくわからないのです。パウロ書簡は正直なところ私もあまり好きになれず、ある会合でパウロ研究の専門家の前でそれを公言して、一悶着引き起こしたことがありました。
ただ、パウロという人にはどこか嫌いきれないところがあるのですよ。パウロの話のあまりの退屈さに眠りこけて三階の窓から落ち、あやうく死ぬところだったエウティコを主人公に何か書けないかと考えたのも、この若者自身がひょっとしてそのようなパウロ観の転換を経験したのではないかと思うところがあったからなんです。
今はこのあたりで御容赦願います。東京も雨でしょう、どうぞ気をつけてお出かけくださいね。
Ω