2023年5月6日(土)
あたりの草むらに野イチゴの赤い実があり、一面の緑の中に宝石を見つけた気分になる。口に入れてみるとこれがほんのり甘くて美味しい。庭のサクランボは甘酸っぱいが、こちらは酸味がほぼ全くない。
春に遊びに来てくれた姻戚が同じ世代の大阪郊外の育ちで、「ヘビイチゴはよく見かけました」というが、ヘビイチゴは味がなく口に入れたいものではない。あらためて調べてみると、野イチゴとはこちらが勝手に決めたことで、クサイチゴ(草苺、Rubus hirsutus)というのが正式名称らしい。バラ科キイチゴ属の落葉小低木ということになる。ヘビイチゴ(蛇苺、Potentilla hebiichigo Yonek. et H.Ohashi)はバラ科キジムシロ属の多年草で、見かけ以上に違ったものであるようだ。
なにしろそのクサイチゴが、今年豊作なのかこれまで気づかなかったのか、裏庭で掌に溢れるほど集まった。
集めながら、ベルイマンの映画『野いちご』を思い出したのは自然な連想である。原題は "Smultronstället"(英訳 "Wild Strawberries")、「野いちご」は野生のイチゴ類の総称と思われる。クサイチゴは帰化植物ではなく、中国・朝鮮半島・日本に広く分布するとあり、北欧の野に実るものとの類縁関係はよくわからない。
それより、あの映画が「野いちご」と題されていることの面白さである。一緒に映画を観た後で学生たちに質問を振ってみると、このタイトリングの企みがすぐにピンと来ないことが多いようなのが、やや意外に思われた。
若い娘のサラは映画の主人公であるイサクの許嫁である。親族の食卓に供すべく野いちごを籠一杯に集めたところへ、イサクの弟ビクトルがやってくる。ビクトルはサラに言い寄り、押し問答の中で野いちごが籠から散乱してしまう。1957年制作で当然ながら白黒の画面だが、それだけに観るもののイメージの中で散らばる野いちごの赤は、かえって鮮やかに想像されるだろう。古い写真のカラー化が最近の話題になっており、それを楽しむのは大いに結構だし自分も楽しむつもりでいるが、それに耽るほどに人の想像力が痩せ衰えていくことは考えておいた方がよい。
この場面、「野いちご」は横溢した生命力とエロティシズムの絶妙な象徴となっている。籠に収まっていたものが、溢れて散らばってしまったのである。説明の必要などありはしない。
映画『野いちご』は仕掛けの多い快作で、ビクトルとイサク、後には二人のヒッチハイカーが「サラ」を競い合うところに託されたヘレニズムとヘブライズムの相克は、その太い軸ともいうべきものである。
甘やかな野いちごを誰が賞味堪能することになるのか、人生の醍醐味は一にかかってそこにある。何という贅沢でしょうこの朝は!
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