散日拾遺

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サウルの戴冠 (サムエル記 10章17~24節)

2013-10-13 16:21:08 | 日記
2013年10月13日(日)

ネズミが仙人に訴えた。

「私は小さくて弱いもので、いつもネコにいじめられています。生きていけるように、強くなりたいのです。私をネコにしてください。」

仙人は憐れんで、ネズミをネコにしてやった。
ネズミは喜んだが、やがてまた仙人に言った。

「強いイヌが弱い私をいじめるのです。生きていけるように、強くなりたいのです。私をイヌにしてください。」

仙人はネコをイヌにしてやった。
イヌは喜んだが、やがてまた仙人に言った。

「強いオオカミが弱い私をいじめるのです。私をオオカミにしてください。」

仙人はイヌをオオカミにしてやった。
オオカミはやがて仙人に言った。

「強いトラがいつ私をいじめるかわかりません。私をトラにしてください。

仙人はオオカミをトラにしてやった。
トラはもう何も恐れるものがなく、わがもの顔にふるまった。
仙人がたしなめると、トラは怒って仙人に襲いかかった。
仙人が手にした扇を振るか振らないかのうちに、トラはネズミに戻っていた。

***

神に選び出されて油注がれ、イスラエル最初の王となったサウルの行く末は、ちょうどこんな具合だった。
今朝与えられたサムエル記(上)10章17-24節はサウル戴冠の場面だが、ここを選んだ教案紙の趣旨はその後のサウルの驕慢と背信にあるらしい。トラになったネズミの物語はサウルそのもので、ちょっと話してみたい気持ちをそそられる。

しかし、この話をすれば小学生の注意はそれに吸いついて、聖書には戻っていかないだろう。仕方なく断念し、まったくオーソドックスに進めることにする。

王とは何か? 
皆に命令する権力(ちから)を与えられたもので、皆はそれに従わなければならない。
善き王のもとにある民は最も幸せであり、悪しき王のもとにある民は塗炭の苦しみを舐める。

それまでイスラエルに王はいたか?
王はいなかった。
預言者と士師(さばきづかさ)が神の意を体して民を指導した。

なぜイスラエルに王が誕生することになったか?
戦争のゆえに、また民の弱さのゆえに。
イスラエルを取り巻くペリシテらは、いずれも強力な王に指導された強力な軍隊をもっていた。イスラエルは自らを強くするために、強力な王が必要であると考えた。
海を分けて民を渡した全能の御手は、民の弱い心にとって十分ではなかった。なぜならそれは目に見えないから。目に見えない全能の神よりも、眩く輝く黄金の犢を民は望み、そして今また目に見える王を望んだ。

預言者は警告しなかったか?
サムエルは警告した。
王は民を軍務と税と労役で苦しめるであろう。民は王の奴隷になるであろう、と。
民は聞かなかった。

【こどもたちへ】
僕たちはいろんなものを欲しがるし、それは人間ならば自然なことだ。
しかし僕たちは、自分にとって良いものを欲しがるとは限らない。
自分にとって良くないもの、それどころか自分を滅ぼすかもしれないものが、欲しくてたまらなくなることが必ずある。
それを覚えていてほしい。

サウルは善き王であったか?
サウルは初め善き王であった。
やがて彼は傲り高ぶり、彼を片隅から選び出して王位に就かせた神の力を忘れ、自らを過信してほしいままにふるまった。それは彼自身と民との災いとなった。

そして物語はダビデへとつながる。
さらにダビデの末裔、僕らの王であるキリストへ・・・


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