2014年7月15日(火)
○ 何遵約法 韓弊煩刑
何(カ)は(漢・高祖の)約法に遵(したが)い、
韓(韓非子)は煩刑に弊(おとろ)えたり。
漢の高祖は秦の失敗に学び、法(刑罰)を三条に簡略化した。すなわち、殺人、傷害、窃盗である。
後に漢の丞相になった蕭何(ショウカ)は、高祖の精神を遵守して政治を行った。以上、前段。
後段について、李注は韓非子が自ら秦の大臣となり、始皇帝の意を体して厳罰主義を実施したかのように書くが、これは史実に反する。始皇帝が韓非子と法家の思想を喜んだということだろうが、ともかくその路線が失敗に帰した。
秦の法は煩雑なうえ、あばらの筋を抜くだの釜ゆでだのの極刑が多く、おまけに始皇帝がしばしば恣意的に刑を課したため、「赭衣(シャイ、囚人服)は道にあふれ、監獄は林立し、天下が大いに乱れた」。
何は約法に遵い、韓は煩刑に弊えたり。
リズムがいいね。
煩瑣は、それ自体ひとつの悪である。それに勝る必要性がない限り正当化されない。
○ 何遵約法 韓弊煩刑
何(カ)は(漢・高祖の)約法に遵(したが)い、
韓(韓非子)は煩刑に弊(おとろ)えたり。
漢の高祖は秦の失敗に学び、法(刑罰)を三条に簡略化した。すなわち、殺人、傷害、窃盗である。
後に漢の丞相になった蕭何(ショウカ)は、高祖の精神を遵守して政治を行った。以上、前段。
後段について、李注は韓非子が自ら秦の大臣となり、始皇帝の意を体して厳罰主義を実施したかのように書くが、これは史実に反する。始皇帝が韓非子と法家の思想を喜んだということだろうが、ともかくその路線が失敗に帰した。
秦の法は煩雑なうえ、あばらの筋を抜くだの釜ゆでだのの極刑が多く、おまけに始皇帝がしばしば恣意的に刑を課したため、「赭衣(シャイ、囚人服)は道にあふれ、監獄は林立し、天下が大いに乱れた」。
何は約法に遵い、韓は煩刑に弊えたり。
リズムがいいね。
煩瑣は、それ自体ひとつの悪である。それに勝る必要性がない限り正当化されない。