2014年2月3日(月)
◯ 劍號巨闕 珠稱夜光(ケンゴウキョケツ シュショウヤコウ)
剣は巨闕と号するもの(が名高く)、珠は夜光と称するもの(が名高い)
[李注]
昔、趙王が五張の宝剣をもち、巨闕はその最上のものだった。春秋時代の名匠。欧冶子がこれを造った際、雨師(雨の神)が水をまいて清め、雷師(雷の神)が拍子をとり、蛟竜(こうりゅう、みずちと竜)が炉を捧げ持ち、天帝が炭を焚いたそうな。
剣に七つの星が宿り、五色の竜の模様が見えたという。隣国の王が一目見たいと駿馬三千疋をさしだしたが、見せてはもらえなかったと。
夜光は楚王のもちもので、海竜王の息子のプレゼントだった。王子が蛇に変身して草むらで遊んでいたところ、牛飼いの少年らに見つかって打ち殺されそうになった。たまたま通りかかった楚の臣・隋侯が哀れんで助けとり、手当てをして放してやった。
夜、庭が突然明るくなったので、すわ賊の侵入かと剣を手に出てみたが人影はなく、代わりに一匹の蛇の子が玉をくわえてそこにいた。7寸の真珠を隋侯は楚王に献じ、館の奥深く安置された玉は夜にはいつも光り輝いていたという。
***
おさらいになるが『千字文』の成立は6世紀初頭、南朝・梁の武帝が周興嗣に命じて作らせたものだ。注をつけた李暹(りせん)は北魏の人とあるが、ネットで検索すると「後漢末の武将・李暹」ばかりが出てくる。漢室の忠臣ということか献帝を守ろうとした人物らしく、三国志演義では曹操の部将・許褚に一刀のもとに斬られた。
千字文注釈者の李暹はもちろん別人である。北魏(439-534)の人で、『文子(フミコではない、モンシかブンシか、何しろ老子の言行を解説した道家の書)』にも注をつけている。
待てよ、『千字文』本文が6世紀初頭の成立で、『李注』も534年までには書かれたはず。となると、本文と注釈の時間差がずいぶん小さいではないか。時は中国の南北朝、本文は南朝の梁で書かれ、直後に注が北朝の北魏で書かれたということは、政治的境界を越えて文化交流が活発であった証拠だ。いつの時代にも、そういうことがあるんだな。
ちょうどこの時期に漢字が日本へ伝えられる。まず南朝系の呉音、ついで北朝系の漢音。これは先に『古事記』と『日本書紀』における漢字の使い方の違いで触れた。日本もまた、交流の中に姿を現しつつあったのだ。
え~っと違うよ、さっき言いたかったのは何だっけ、6世紀初頭の李暹の注に「趙」や「楚」の故事がしきりに現われる面白さだ。いわゆる春秋五覇に、楚(荘王)は見えるが趙はない。戦国七雄には両者が出てくる。そのあたりである。
何しろ春秋戦国時代が逸話の源、歴史と神話が相半ばして汲めども尽きぬイメージの宝庫なのだろう。
***
小学生の頃、今から思えばひどく酷いやり方で蛇を殺したことがある。アオダイショウか何かを幼い頭で危険な毒蛇と思い込み、それならそれで逃げるのが正しいところを、なぜか妙に殺気だって「退治」してしまったのだ。
今でも思い出すと悲しくなる。まして海神の嘆きはいかばかりか。
僕はその寵を永遠に失った。
◯ 劍號巨闕 珠稱夜光(ケンゴウキョケツ シュショウヤコウ)
剣は巨闕と号するもの(が名高く)、珠は夜光と称するもの(が名高い)
[李注]
昔、趙王が五張の宝剣をもち、巨闕はその最上のものだった。春秋時代の名匠。欧冶子がこれを造った際、雨師(雨の神)が水をまいて清め、雷師(雷の神)が拍子をとり、蛟竜(こうりゅう、みずちと竜)が炉を捧げ持ち、天帝が炭を焚いたそうな。
剣に七つの星が宿り、五色の竜の模様が見えたという。隣国の王が一目見たいと駿馬三千疋をさしだしたが、見せてはもらえなかったと。
夜光は楚王のもちもので、海竜王の息子のプレゼントだった。王子が蛇に変身して草むらで遊んでいたところ、牛飼いの少年らに見つかって打ち殺されそうになった。たまたま通りかかった楚の臣・隋侯が哀れんで助けとり、手当てをして放してやった。
夜、庭が突然明るくなったので、すわ賊の侵入かと剣を手に出てみたが人影はなく、代わりに一匹の蛇の子が玉をくわえてそこにいた。7寸の真珠を隋侯は楚王に献じ、館の奥深く安置された玉は夜にはいつも光り輝いていたという。
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おさらいになるが『千字文』の成立は6世紀初頭、南朝・梁の武帝が周興嗣に命じて作らせたものだ。注をつけた李暹(りせん)は北魏の人とあるが、ネットで検索すると「後漢末の武将・李暹」ばかりが出てくる。漢室の忠臣ということか献帝を守ろうとした人物らしく、三国志演義では曹操の部将・許褚に一刀のもとに斬られた。
千字文注釈者の李暹はもちろん別人である。北魏(439-534)の人で、『文子(フミコではない、モンシかブンシか、何しろ老子の言行を解説した道家の書)』にも注をつけている。
待てよ、『千字文』本文が6世紀初頭の成立で、『李注』も534年までには書かれたはず。となると、本文と注釈の時間差がずいぶん小さいではないか。時は中国の南北朝、本文は南朝の梁で書かれ、直後に注が北朝の北魏で書かれたということは、政治的境界を越えて文化交流が活発であった証拠だ。いつの時代にも、そういうことがあるんだな。
ちょうどこの時期に漢字が日本へ伝えられる。まず南朝系の呉音、ついで北朝系の漢音。これは先に『古事記』と『日本書紀』における漢字の使い方の違いで触れた。日本もまた、交流の中に姿を現しつつあったのだ。
え~っと違うよ、さっき言いたかったのは何だっけ、6世紀初頭の李暹の注に「趙」や「楚」の故事がしきりに現われる面白さだ。いわゆる春秋五覇に、楚(荘王)は見えるが趙はない。戦国七雄には両者が出てくる。そのあたりである。
何しろ春秋戦国時代が逸話の源、歴史と神話が相半ばして汲めども尽きぬイメージの宝庫なのだろう。
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小学生の頃、今から思えばひどく酷いやり方で蛇を殺したことがある。アオダイショウか何かを幼い頭で危険な毒蛇と思い込み、それならそれで逃げるのが正しいところを、なぜか妙に殺気だって「退治」してしまったのだ。
今でも思い出すと悲しくなる。まして海神の嘆きはいかばかりか。
僕はその寵を永遠に失った。