2025年1月25日(土)
日本の国石 ~ 国の石というものが決められていて、それがヒスイだという。検索してみて七千年にわたる驚くべき事情を知った。
以下、文も写真も下記から拝借。
ヒスイ(翡翠、英: jade、ジェイド)は、深緑の不透明~半透明な宝石の一つ。東洋(中国)や中南米(アステカ文明)では古くから人気が高い宝石であり、金以上に珍重されたこともある。古くは玉(ぎょく)と呼ばれた。
翡翠と称される鉱物には「硬玉(ヒスイ輝石)」と「軟玉(ネフライト : 透閃石-緑閃石系角閃石)」がある。両者は鉱物学的には全く別の鉱物である。しかし見た目では区別がつきにくく、宝石としてはどちらも「翡翠」として扱われる。
翡翠と称される鉱物には「硬玉(ヒスイ輝石)」と「軟玉(ネフライト : 透閃石-緑閃石系角閃石)」がある。両者は鉱物学的には全く別の鉱物である。しかし見た目では区別がつきにくく、宝石としてはどちらも「翡翠」として扱われる。
ヒスイは非常に頑丈なことから、先史時代には石器武器の材料でもあった。ヨーロッパでは翡翠で作られた石斧が出土する。
現在判明している世界最古のヒスイの加工は、日本国内の新潟県糸魚川市(の現領域)において約5,000年前に始まったものである。世界最古の翡翠大珠が同国内の山梨県で見つかっている。2016年時点では国内の翡翠加工史は7千年前とされている。
現在判明している世界最古のヒスイの加工は、日本国内の新潟県糸魚川市(の現領域)において約5,000年前に始まったものである。世界最古の翡翠大珠が同国内の山梨県で見つかっている。2016年時点では国内の翡翠加工史は7千年前とされている。
【日本のヒスイ史】
上述のように日本列島においては世界最古と考えられるヒスイ加工文化が発展したが、のちに衰退して忘れ去られていた。しかし20世紀に再び国内での産出が発見されたことで、歴史学的・地理学的な注目を浴びることとなった。
古代における発展
日本におけるヒスイ利用文化は約5,000年前の縄文時代中期に始まり、縄文人がヒスイの加工を行っていた。のち弥生時代・古墳時代においても珍重され、祭祀・呪術に用いられたり、装身具や勾玉などに加工されたりしていた。
新潟県糸魚川市(現在)のヒスイ海岸に打ち上げられたヒスイの原石が交易品として海路を用いて広く運ばれたとされ、北海道から沖縄に至る範囲で一千箇所以上でヒスイの加工品が発見されている。
糸魚川のヒスイは海外にも運ばれ、朝鮮半島からも出土している。さらに中国の史書「魏志倭人伝」に記載された邪馬台国の台与が中国王朝に贈った2個の勾玉がヒスイだったという説もある。
衰退と忘却
奈良時代に入り仏教が伝来すると、王朝はそれまで重要とされていたヒスイの利用を避けるようになり、急速に日本の歴史から姿を消した。ヒスイを多くあしらった国宝である東大寺不空羂索観音立像はその過渡期のものである。
そのため以後はヒスイの加工文化のみならず日本国内で産出することも忘却されており、昭和初期までの研究者たちは、日本国内の遺跡から出土するヒスイの勾玉等は海外(ユーラシア大陸)から持ち込まれたものだと考えていた。
再発見
1938年(昭和13年)、糸魚川市に在住する文学者の相馬御風が、史書の記載によればかつて糸魚川周辺を治めていたという奴奈川(ぬながわ)姫がヒスイの勾玉を身につけていたとされるため、付近にヒスイの産地がある可能性があると考えた。
相馬が知人の鎌上竹雄にその旨を話したところ、鎌上はさらに親類の伊藤栄蔵に口伝し、伊藤は同年8月12日に居住していた小滝村(現・糸魚川市)を流れる小滝川に注ぐ土倉沢の滝壷で緑色の美しい石を発見した。
翌1939年(昭和14年)6月、その石は鎌上の娘が勤務していた病院の院長である小林総一郎を通じて、小林の親類であり東北帝国大学理学部で岩石鉱物鉱床学を研究していた河野義礼へ送られた。河野の上司である教授の神津俶祐が所有していたビルマ産のヒスイとその石とを河野が分析比較した結果、小滝川で採れた緑色の石はヒスイであることが判明した。
さらに翌7月、河野は現地調査によって小滝川の河原にヒスイの岩塊が多数あることを確認し、河野は同年11月に論文を発表した。
この結果、日本国内にはヒスイの産地が存在することが証明された。奈良時代に忘れられて以降、約1,200年もの時を経た再発見であった。
日本列島周辺で太古に利用されていたヒスイ加工品が海外渡来でなく日本国内由来のものであったことが示され、考古学上および地質学上の通説を覆す、歴史的意義の大きい画期的な発見となった。
再発見にまつわる謎
この再発見に関してはさまざまな疑問点、またそれ以前の「再発見」の可能性を示す異説が存在する。
現代
2016年(平成28年)9月には日本鉱物科学会により日本の国石と認定された。
なお、日本の天然記念物に指定されている場所での翡翠の採取は、文化財保護法に違反するおそれがある。
日本におけるヒスイ利用文化は約5,000年前の縄文時代中期に始まり、縄文人がヒスイの加工を行っていた。のち弥生時代・古墳時代においても珍重され、祭祀・呪術に用いられたり、装身具や勾玉などに加工されたりしていた。
新潟県糸魚川市(現在)のヒスイ海岸に打ち上げられたヒスイの原石が交易品として海路を用いて広く運ばれたとされ、北海道から沖縄に至る範囲で一千箇所以上でヒスイの加工品が発見されている。
糸魚川のヒスイは海外にも運ばれ、朝鮮半島からも出土している。さらに中国の史書「魏志倭人伝」に記載された邪馬台国の台与が中国王朝に贈った2個の勾玉がヒスイだったという説もある。
衰退と忘却
奈良時代に入り仏教が伝来すると、王朝はそれまで重要とされていたヒスイの利用を避けるようになり、急速に日本の歴史から姿を消した。ヒスイを多くあしらった国宝である東大寺不空羂索観音立像はその過渡期のものである。
そのため以後はヒスイの加工文化のみならず日本国内で産出することも忘却されており、昭和初期までの研究者たちは、日本国内の遺跡から出土するヒスイの勾玉等は海外(ユーラシア大陸)から持ち込まれたものだと考えていた。
再発見
1938年(昭和13年)、糸魚川市に在住する文学者の相馬御風が、史書の記載によればかつて糸魚川周辺を治めていたという奴奈川(ぬながわ)姫がヒスイの勾玉を身につけていたとされるため、付近にヒスイの産地がある可能性があると考えた。
相馬が知人の鎌上竹雄にその旨を話したところ、鎌上はさらに親類の伊藤栄蔵に口伝し、伊藤は同年8月12日に居住していた小滝村(現・糸魚川市)を流れる小滝川に注ぐ土倉沢の滝壷で緑色の美しい石を発見した。
翌1939年(昭和14年)6月、その石は鎌上の娘が勤務していた病院の院長である小林総一郎を通じて、小林の親類であり東北帝国大学理学部で岩石鉱物鉱床学を研究していた河野義礼へ送られた。河野の上司である教授の神津俶祐が所有していたビルマ産のヒスイとその石とを河野が分析比較した結果、小滝川で採れた緑色の石はヒスイであることが判明した。
さらに翌7月、河野は現地調査によって小滝川の河原にヒスイの岩塊が多数あることを確認し、河野は同年11月に論文を発表した。
この結果、日本国内にはヒスイの産地が存在することが証明された。奈良時代に忘れられて以降、約1,200年もの時を経た再発見であった。
日本列島周辺で太古に利用されていたヒスイ加工品が海外渡来でなく日本国内由来のものであったことが示され、考古学上および地質学上の通説を覆す、歴史的意義の大きい画期的な発見となった。
再発見にまつわる謎
この再発見に関してはさまざまな疑問点、またそれ以前の「再発見」の可能性を示す異説が存在する。
現代
2016年(平成28年)9月には日本鉱物科学会により日本の国石と認定された。
なお、日本の天然記念物に指定されている場所での翡翠の採取は、文化財保護法に違反するおそれがある。
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