2020年4月4日(土)
「ところで、日本棋院の機関誌『棋道』は1937(昭和12)年の新年号を「呉泉六段帰化記念号」と題して、特集を組んでいる。日本棋院の副総裁・大蔵喜七郎や国家主義者の頭山満らが、呉清源の帰化を歓迎する一文を寄せているが、萱野長知ひとりは冷静に書いている。
≪日支両国の区別を持たぬ私にとっては、支那人が日本に帰化しやうと、日本人が支那人にならうと、聊(いささ)かも感銘を覚えない、支那から日本に帰化すると云ふ事を非常に重大な問題として取扱ふ事を寧ろ不審に思ふ位である≫
萱野は呉清源の囲碁にかける姿勢にも、才能にも賛辞を贈った人物である。その萱野が帰化問題に対して、わざわざ「不審」という言葉を記したことは、まさに日本に帰化し名蹴れば、囲碁さえ打てなくなるような息苦しい世相への痛烈なる批判であろう。満州という広大な中国領土をのみ込んだ日本は、一人の棋士の国籍さえ、のみ込んだわけである。呉清源を日本の「同胞」「臣民」に加えることを半ば強いるような時代の圧力が、ありありと見える。」
桐山桂一『呉清源とその兄弟 ー 呉家の百年』岩波書店(2005)
***
萱野長知という人物の構えと発言に、まずは大いに共感。ついでそのプロフィルをネット上に探し、あらためて考え込む。
萱野 長知(かやの ながとも、1873年10月12日 - 1947年4月14日):
日本の政治運動家・民間外交家で大陸浪人・アジア主義者の代表的人物のひとり。高知県出身。玄洋社社員。
【経歴】
自由民権運動に傾倒するが、後に大阪時事通信社の社員となる。
後に中国に渡って中国語を学び、広東・香港で新聞通信員となり、辛亥革命中の孫文と知り合う。1906年(明治39年)、宮崎滔天、平山周、和田三郎(高知共立学校時代の同級生)らと革命評論社を設立。『革命評論』を創刊して、孫文らの辛亥革命をアジア主義者の立場から支援する。
日露戦争時は玄洋社が編成した満洲義軍に参加する。
満洲事変解決のために犬養毅の命を受け、蒋介石との停戦和平交渉に出向くが松井石根陸軍中将(当時)、外務官僚重光葵、書記官長森恪の妨害により、失敗した。1946年9月18日、貴族院議員に勅選された。
(Wikipedia)
玄洋社社員、つまり頭山満らの盟友の一人に数えられる人物だが、呉清源の帰化をめぐる上記の発言は、頭山との間に微妙な対照を醸している。「日支両国の区別を持たぬ」はアジア主義者として当然の主張だが、「区別を持たず」とする上の句に続けて、
A. だから呉が日本にいる以上、日本国籍をとって日本人になるのが当然だ
B. だから呉が日本国籍をとろうととるまいと拘泥しない
粗雑に分けてこれら二つの下の句が想定される。そして、その人の本当の立ち位置は上の句ではなく下の句で示されるはずだ。アジアの解放を大義として掲げる者が、具体的な文脈の中でたとえば対華二十一箇条要求に対してどのような態度をとるかということとの、並行現象でもある。
呉の帰化に「聊かも感銘を覚えない」としたことと、蒋介石との停戦和平交渉に向けて尽力したこと、ここに見る限り萱野長知という人物にはブレない軸があったように思われる。これがアジア主義であるなら、アジア主義も立派なものだ。
頭山満については『中村屋のボース』にも多く登場する。頭山と玄洋社の評価をめぐって、同書の筆者がしばしば批判を招いているのを見かける。
R.B. ボース(1886-1945)と呉清源(1914-2014)では生まれ年が30年も違うが、同じ歴史位相の中で日本に帰化することを選んだアジア人という点では共通している。
ボースは碁を打っただろうか?萱野という人物には、どんな印象を抱いていただろうか?
萱野長知(上記サイトより)
Ω