散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

反対語

2020-04-20 12:28:52 | 日記
2020年4月19日(日)
 「天声人語」がジャッキー・ロビンソンについて解説する中で、
 「不可能の反対は可能ではない、挑戦だ」
 という彼の言葉を紹介している。けだし名言。

 そこで、
 「愛の反対は憎しみではない、無関心である」
 というマザー・テレサの言葉を思い起こす。これまた真理。

 ついでにこれも、
 「買うの反対は、売るでしょ?」
 「違うよ、見るだけ」


ジャック・ルーズベルト・ロビンソン(Jack Roosevelt "Jackie" Robinson, 1919 - 1972)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャッキー・ロビンソン より拝借  

Ω


困難の性質

2020-04-15 08:17:01 | 日記
2020年4月14日(火)
 イースターの翌日は横なぐりの烈しい風雨が終日続き、そのさなかにS姉が急逝された。新型コロナとは無関係の、古くて新しい病気によるものだった。
 まだ70代で溌剌とした立ち居振る舞いはそれよりずっと若く、前週にはいつも通り当番の仕事にあたっておられたのだから、聞いて絶句したことは言うまでもない。夜に入っての訃報になかなか寝つかれず、他から知らせを受けた次男は夜中にメールをよこし、家人は明け方から起き出すという具合で、皆が皆「安寝しなさぬ」狼狽ぶり。まして御家族の悲嘆は想像すべくもない。
 今日が前夜式、明日が告別式、常ならば教会員一同がこぞって参集するところ、現状ではそれが許されない。御家族の側からいち早く会葬は固辞するとの伝達があった。
 現在われわれが直面している困難は、要するにこういう性質のものである。
 人が社会的動物であるということは、何かにつけて寄り集まり、言葉を交わし、身体的に接触したがるものであるというに他ならない。そのようにして泣くものとともに泣き、喜ぶものとともに喜ぶのである。
 三密を避けよ、ソーシャルディスタンスをとれというのは、社会的動物としての自然な欲動に蓋をせよということだ。この時とばかりSNSを活用する者はするだろうが、それにも限界のあることが端的に示された形である。
 起床後にたどたどしく手紙を書き、人気のない教会のメールボックスに届けた。がらんとした会堂で、牧師と奏楽者、出入りの葬儀屋らがマスク姿で黙々と準備を進めている。せめて出棺の際に遠くからでも見送りたいと考えたが、明日は本務先のweb会議で一日モニターの前にいなければならない。
 この種の落胆とフラストレーションが国中に満ちているのが、まさしく現状というわけである。
***
 また別の意味で、今回考えさせられているのがウィルスという存在についてである。いわゆる病原体の中に細菌、リケッチア、プリオン、ウィルスなどがある、そういう図式で理解していたが、これではウィルスというものをいささか矮小化していることになるかもしれない。少なくとも、これまで縦に見ていたものを横に見直す必要がありそうだ。
 つまり・・・
 ウィルスというのは「核酸分子」という単純にして強力な巨大ファミリーの一亜型に他ならない。低分子の小ユニットが延々と連結して巨大高分子を作り上げるという点で、核酸はタンパク質や炭水化物と類似している。ただ一つ異なるのが、自己と同じものを無際限に複製できるという希有の特性で、それを支えるのが核酸塩基の相補結合というエレガントなカラクリである。
 僕らの発想は「核酸=遺伝子」というところから出発し、細胞核の中に「箱入り娘」のように秘蔵されているDNAがRNAを介して御簾の外へ情報を発信する標準型を知ったうえで、それとは違って広い世間を自在に跳梁するウィルスという存在を学び、こいつはそれ自体の箱物をもたず他人様の細胞の軒を借りて母屋を乗っ取る式の、ゲリラ的な戦術が身上なのだと教わって仰天する。
 その順序で教わるので、それが標準であり逸脱であるかのように(少なくとも僕は)思い込んでいたのだが、教わる順序(あるいは発見の順序)とものごとの道理との間に必然的な一致が期待できるわけではない。核酸という分子ファミリーの存在から出発する方が、理論的にも歴史的にも正しそうである。
 自己複製という希有の特性を有する核酸分子ファミリーが、いつの頃からか地球上に存在していた。やがてそれがアミノ酸/タンパク分子ファミリーと運命的な出会いを遂げる。核酸は自己複製によって情報伝達を担うことができるが、それ自体にエネルギーを変換し物質を分解生成する力はない。後者を担うのがタンパク質で、酵素タンパクとの連携によって核酸の自己複製効率が飛躍的に増大する一方、タンパクの側では核酸との連携によって自己複製という夢のような特性が獲得された。まさに win-win である。
 タンパクとのこの出会いを本格的に活用し、タンパクの箱の中に入って可動性を失う代償としてエネルギーを永続的に支配する力を得たのが「遺伝子」という名の核酸。これに対して、タンパクとのつきあいを随時的・不即不離のレベルに止め、身軽さと自在な変異性を維持する方向性を守ったのが「ウィルス」という名の核酸。
 「遺伝子」という標準型のゲリラ的な亜型として「ウィルス」があるのではなく、核酸分子ファミリーの二つの存在様式が「遺伝子」と「ウィルス」なのであり、両者は対照的であると同時に相互移行的でもある・・・

 「ウィルスを克服することはできない、共存することができるだけだ」という趣旨の有名生物学者の指摘や、「ウイルス共生の歴史」と題された新聞の特集記事(2020年4月6日、朝日新聞朝刊19面)から学んだところを自分の言葉でまとめ直すと、ざっとこんな具合である。いま直面している困難は、背後でこういう文脈につながっているわけだ。小さすぎて見えない敵は、大きすぎて見えない歴史を背後に負っている。
 エンゲルスが今の世に再来したら、「生命はタンパク質の存在様式である」(『反デューリング論』)という有名な言明に、修正を加えたことだろう。

 「生命は核酸の存在様式である」
  あるいは
 「生命は核酸とタンパク質の相互作用の諸様式である」
  と。

https://www.biophys.jp/highschool/B-03.html 

Ω

Happy Easter 2020 !

2020-04-13 08:00:50 | 日記
2020年4月12日(日)
 マグダラのマリアが弟子達のところへ駆け込んだ。
 「主が墓から取り去られました。どこにいるのか、わたしたちには分かりません。」
 シモン・ペトロともう一人の弟子が墓へ急行するが、為すところなく帰ってくる。マリアは二人が立ち去った後も、墓の外で立ちつくして泣き続けた。ふと気づくと墓の中に、白衣の男が二人座っているのが見えた。
 「わたしの主が取り去られました。どこにいるのか、わたしには分かりません。」
 そして背後に立つイエスに、相手が誰とも知らぬまま訴えた ~ エマオ途上の顕現(ルカ24章)を思わせる筆法である。
 「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
(ヨハネによる福音書 20:2-15より)
 
 「主が取り去られました」と、マリアは二度にわたって訴えている。実際には何度も繰り返して訴えた、その初めのものと終わりのものが抜き出されているのであろう。
 初めマリアは「主が墓から取り去られました」と言い、「どこにいるのか、わたしたちには分かりません」と言った。
 後にマリアは「わたしの主が取り去られました」と言い、「どこにいるのか、わたしには分かりません」と言った。
 ηραν τον κυριον εκ του μνημειου και ουκ οιδαμεν που εθηκαν αυτον.
 ηραν τον κυριον μου, λαι ουκ οιδα που εθηκαν αυτον.

 繰り返し訴えるにつれ、マリアの苦悩は微妙に姿を変え焦点を移していく。「わたしたちの主」が「墓から取り去られた」ことを仲間に伝える初めの形(喪失の共有)から、「わたしの主」が「わたしから取り去られた」ことを謎の相手に泣訴する後の形(喪失の個別化)へ、叫びは狭く深くマリアの内に閉じられる。もはや「わたしたち」ではなく、「わたし」の問題なのだ。シモン・ペトロも愛弟子ヨハネも去らば去れ、わたしマリアがあの方を引き取るのだから。
 「ラボニ!」「触れてはならない」 ー かつてH姉が「至高のメロドラマ」と呼んだ場面がこの後に続く。

"Noli me tangere" by Александр Андреевич Иванов(1858)

***

 イースターに礼拝にあずかれなかったのは信徒歴36年で初めてのことではないかと思う。この不全感と閉塞感を少なくとも世界で数億人が共有していることだろうが、その色合いと陰翳は数億通りに個別である。
 数日前にNT先生がお便りをくださり、御自身の作品の中から数点おくってくださった。お名前を明かすのは、おゆるしを得た後のこととして。
   
   


 「実は私も色覚異常者の一人です。しかし神は、色はだめでも線(デザイン)を感動をもってキャッチ出来る賜物を与えて下さっています。とくに創造主なる神のデザインを。人間は直線がスキ、しかし神は生命の曲線がおすきです。」

 空の墓に、生命の曲線に、祝福あれ!

Ω


 

街中の様子

2020-04-10 09:39:10 | 日記
2020年4月9日(木)
 家にいるのが、世のため人のためじゃないの?緊急事態なのに外出していいの?
 どうぞ御海容を。他でもない診療のためなので、行かなければ患者さんが困るんです。それに、もともと健診機関であるこの日の診療先は今後一ヶ月間の業務中止を決めており、その最終打ち合わせという事情もあることで。

 おっかなびっくりの御茶ノ水界隈は、見ての通りガランとして人通り僅少。
   
(左: JR御茶ノ水駅前、 右: 明治大学駿河台キャンパス前の歩道)
  
 三省堂書店もこの通り。これだけ外出が抑えられれば、緊急事態宣言の意味もあったということか。
    

 ただですね・・・

 神保町の主役である古本屋さんたちは、ほとんどが開店中。ただし、客はきわめて少なく閑古鳥が鳴き渡っている。探索には絶好の条件と気を引かれつつ、今日はぐっとこらえて直帰。

 帰宅後にインターネットのフリー囲碁サイトを久しぶりに訪問してみたら・・・


 数年前のエイプリルフールには、ページタイトルのCOSUMI がさりげなく GUZUMI に変わってたっけ。サイト管理者、臨機の小技にアッパレ進呈!

Ω

「国籍抹消」は他人事にあらず

2020-04-09 07:34:44 | 日記
2020年4月9日(木)
 呉清源夫妻の国籍抹消事件をめぐる付記。
 役所のすることについて、とりわけ氏名や国籍などの超基本情報の扱いによもや間違いはあるまい、などと思ってはならない。

 知人に「桝」の字の付く人があり、仮に桝岡さんとしておく。知り合って以来、20年以上もこの綴りで認識していた相手が、今年に入って「枡岡」と書いてよこすようになった。事情を尋ねたところ、下記の教示あり。

 「生まれてこのかた「桝岡」を使い続け、小学校から定年まで「桝」の字に親しんできました。ところが亡父によれば、何時の頃からか役所の謄本が枡岡に変わっていたというのです。手書きの時代に、いつかどこかで略字(別字?)に変えられてしまったらしい。その結果、私の子どもたちは生まれてこのかた「枡岡」で書類が作られています。
 いつか統一しなければと思いつつここまで来てしまいましたが、今後のことも考え枡岡にいたしました。よろしく御承知おきください。」

 端的に云って非常に失礼なことであり、小さからぬ不快と不都合をもたらすことだが、訂正しようとすれば簡単にはいかないのであろう。それでも誰も責任を取らず、誰も謝らないのがお上のことの奇異なる常識で、「担当者が変わってしまってわからない」式の言い逃れが、国政から地域窓口まで遍く通用している。よく似た無責任をかつてANAという航空会社を相手に経験しており、行政に限ったことではないのだろうけれど。
 胸中を深くお察しする。他人事ではないだけに。

Ω