散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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ムシュー・ヴェルドゥー

2020-04-23 09:17:03 | 映画鑑賞
2020年4月22日(水)
 『殺人狂時代』の邦題で知られるチャップリンの映画、原題は "Monsieur Verdoux" である。
 主人公が処刑される直前の有名な台詞、
  "One murder makes a villain; millions a hero. Numbers sanctify." 
 「一人殺せば悪党だが、百万殺せばヒーローだ。数が多けりゃ崇められる。」(私訳)
 ”sanctify" の和訳は難しい。「聖別する」「聖化する」といった意味のすぐれて宗教的な言葉で、むろんチャップリンはそれを承知で使っている。それもそのはず、これはもともと英国国教会牧師 Beilby Proteus(1731-1809)の言葉だそうだ。字幕翻訳者も悩んだことだろう、「数が(行為を)正当化する」とやっていて、日本語ではこれぐらいしかないかもしれない。"sanctify" は痛烈な皮肉で、ムシュー・ヴェルドゥーがこの言葉を吐いた直後に神父が監房にやってくる。
 1947年制作の作品、これが1952年の国外追放の伏線になったなどとは今日では信じ難いが、そこから逆に時代の空気を知ることができる(赤狩り!)。制作に要する時間を考えれば、進行中の戦争について早くからシニカルな見方をしていたものであろう。1940年には、まだ戦争など他人事の時期のアメリカで、『独裁者』 "The Great Dictator" を公開した同じ人物である。月並みな表現だが、特定のイデオロギーに追随停滞することなく、常に時代の一歩先を行っている。それが非凡なのだ。
 
 上記のような引用を含め、チャップリン作品は警句満載である。
 「絶望は麻薬に似ている。人の心を麻痺させる。」
 これも『殺人狂時代』から。
 麻痺した心は叫ぶことも書きとめることも止めてしまうから、絶望に真にうちひしがれた人々の思いは決して表には出てこない。いま我々が直面している困難についても同じことである。
 
 かつて助けた女性に助けられ、庇護下に入ろうとする寸前に被害者の家族に発見されて、ムシュー・ヴェルドゥーが車窓越しにさよならを告げる。
 どうするつもり?
 「運命に従います」と字幕に出るが、彼の言葉は "I'm going to fulfill my destiny." だった。fulfill は単に従うこととは違うだろう。
 旧約と福音との連続性を重視するマタイ福音書が、くどいように付け加える「預言が実現するため」あるいは「成就するため」という言葉、この「実現する」「成就する」はギリシア語 πληροω の和訳であり、これが英語の fulfill にあたる。
 この語によって、マタイは神意が過(あやま)たず果たされることを証し、ムシュー・ベルドゥーは突きつけられた盃をせめて自ら飲み干そうとした。
 ゲッセマネのキリストが重なって見える。




Ω

人格はどこに宿るか?

2020-04-22 19:57:26 | 日記
2020年4月22日(水)
 ・・・ということは、
 陸判官は朱爾旦の腸(はらわた)を取り替えることによって、朱の心を改善したのだから、心は腹に宿ると考えられているわけである。また、心の入れ替えによって朱の作文能力が向上したのだから、心はここでは「知性の座」というほどの意味である。そして「腹=心」を入れ替えても、朱の人柄や同一性は何ら変更を受けていない。

 さらに、朱の妻の首(頭部)がすげ替えられた話。顔立ちの改善を希望したところ、請け合った陸判官は頭部全体をすげ替えてしまったが、だからといって人格や同一性の交代が起きたわけではない。
 「朱の妻が洗い終わった顔をあげると、まったく別人になっていたので、小間使いは二度びっくり。朱の妻も鏡を取って自分の顔を映して見、わけがわからず、おろおろするばかりだった。」(P.150)
 首は顔であって頭(精神)ではないのである。

 とすると『聊斎志異』の世界において、人の心(我らが使っている意味での)や同一性 ~ 「たましい」と言い換えても良いか ~ が宿るのは人体のどの部分なのか?
 それとも、それは人体のいかなる特定の部分にも宿りはしない、別次元の現象と考えられているのか? 
 いよいよ面白くなってきたが、いくらかでもマジメに追うなら次は原語に当たらねばならず、書かれた時代にも留意が必要である。蒲松齢は清初の人、1640年(崇禎13年) - 1715年(康熙54年)とあり、『聊斎志異』は主として作者の30代に執筆されたらしい。
 
 「首は顔であって知性の座ではない」ということで思い出すのが、鉄腕アトム。アトムのハート型の人工頭脳は位置もちょうど心臓のあたりにあり、あのトンガッチョの頭は少なくともそういう働きはしていない。美少女の助けに応じてアトムが夜な夜な南海に飛んでいく話では、毎晩のように頭を壊して帰ってきては、お父さんに小言を言われながら新品の頭をつけてもらっていたっけ。
 なまじ医学が進歩し脳死のこともあって、すっかり「頭=脳」偏重になった今日の我々だが、果たしてそこがゴールなのかどうか。

 そうそう、アトムの中にもう一つ、シャーロック・ホームスパンという探偵が登場し、ケガをするごとに身体のパーツが人工物で置き換えられ、最後に残った頭も大けのため人工頭脳に置き換えられるというのがあった。ホームスパン氏はもともとロボット嫌いだったから、どうなることかと周囲が案じるのをよそに、蘇生回復した彼がアトムとの交流を経て、全身人工物になった自分を恥じることなく挨拶する、そんな流れだったと思う。
 ホームスパン氏が人間かロボットかという問題よりも、頭脳が人工に置き換わっても同氏のアイデンティティが一貫して保たれていることのほうが、小学生の自分には面白かった。
 感じ方は今も同じである。

***

【緑衣の人】
 干璟は字を小宋といい、益都の人である。寺の一室を借りて受験勉強をしていたが、ある夜も書物をひろげて音読していると、窓の外で、
 「干さま、お勉強ですこと」
という女の声がした。こんな山深いところに女がいるはずがないのにと、怪訝におもっているところへ、一人の女が笑いながら入ってきた。
 「お勉強ですわね」
 驚いて立ち上がると、女は足もとまでの長い緑の衣をまとった、この世に二人とないような美人だった。
 きっと幽鬼だとおもったので、住まいはどこかと厳しく問い詰めたが、
 「わたくしがあなたを取って食うような者ではないことはご存じのくせに、そんな意地悪はおやめになって」
 といわれて、憎からずおもい、泊って行くよう誘った。彼女の腰は細くくびれて、今にも折れそうだった。
(後略 P.159-160)

 わかった!
 愚鈍な読み手で、ストーリーの先読みなど大の苦手だが、この美人の正体はさすがにここで見通せた。しかし緑衣ですか、緑かなぁ、この生き物は・・・?
 何度痛い目にあっても憎く思えない、緑衣の人の大の贔屓がここにいる。やって来ないかな、美味しいお酒があるのにな。


 蒲 松齢(ほ しょうれい、Pu Songling): 崇禎13年4月16日(1640年6月5日) ‐ 康熙54年1月22日(1715年2月25日)。清代の作家。字は留仙または剣臣、号は柳泉居士。また聊斎先生と呼ばれた。

Ω

心と腹と小論文と出世

2020-04-22 08:28:27 | 読書メモ
2020年4月22日(水) 
 ・・・ある夜のこと、朱は酔ってきたので、まだ飲んでいる陸判官を残して先に寝てしまったが、夢うつつに腹がちくちく痛むのを覚えて目をさました。見れば陸判官が寝台に座り、朱の破れた腹から腸を引き出してきれいにのばしているではないか。朱は驚いて抗議した。
 「わたしはあなたに恨まれるようなことをした覚えはありません。それなのに殺すとはひどいではありませんか」
 「ははは、ご心配にはおよばぬ。貴公の心をできのよい心と取り替えているところでござる」
 陸判官は落ち着き払って腸を腹に納めると、腹の皮を合わせ、最後に布で腹をぐるぐる巻きにした。すっかり終わって寝台の上を見てみると、一点の血の跡もなく、腹がちょっとしびれているだけだった。陸判官が肉の塊を机のうえにおいたので、
 「それはなんですか」
 と聞くと、
 「これは貴公の心でござる。貴公が小論文をうまく書けないのは心の穴が詰まっているからでござったが、さきほど冥土で何千何万という心の中から、一ついいものを見つけたので、取り替えて差し上げたのでござる。こちらの心はこれから持って行って、向こうの腹の穴に埋めてまいる」
 と立ち上がり、自分で扉を閉めて出て行った。
 夜が明けて、布を解いて見てみると、腹はすでにふさがっていて、赤い糸のような傷あとが残っているだけだった。
 この日から、朱はうまい小論文が書けるようになり、また一度読んだものは二度と忘れないようになった。五、六日して新しく書いた小論文を出して陸判官に見せると、判官はいった。
 「結構でござる。しかし、貴公の運はさして大きくないので、とんとん拍子に出世するという訳にはいかないでござろう。出世してもせいぜい中級職まででござろう」

(中略)

 朱はそこで陸判官をともなって家に帰り、一緒に酒を飲んだ。そして、よい気持ちになったところで頼んでみた。
 「わたしの腸を洗い心を入れ替えてくださったときには、すっかりお世話になりましたが、実はもうひとつお願いしたいことがあるのです。お聞き届けいただけるでしょうか」
 「何なりといってくだされい」
 「心や腸を入れ換えることができるのでしたら、顔はもっと簡単に取り替えることができるのではないでしょうか。実はわたしの家内は親同士が決めてくれたもので、身体はとても丈夫なのですが、顔がいまひとつ感心できないのです。そこでひとつあなたのお力をお借りしたいのです」
 「ははは、よく分かりました。ただ、すこしお待ちいただきたい」
 それから数日して、陸判官が夜中に訪ねてきた。急いで起き出して門を開いた。明かりをつけると、懐中になにか抱えているので、それはと尋ねると、
 「先日ご依頼のあったものを、いろいろと探していたのですが・・・」

『聊斎志異』より「首のすげかえ」(原題:陸判) 立間祥介編訳

Ω

黄英または菊の姉弟 ~ 聊斎志異と清貧譚

2020-04-21 10:56:43 | 読書メモ
2020年4月21日(火)
 「聊斎志異」を岩波少年文庫版で少しずつ読んでいる。侮るなかれ、すごすぎる原作を敬遠して読まずに終わるより、平易で質の高いダイジェスト版でともかく読む方がよほど良い。とりわけ翻訳物はどうせオリジナルにこだわるなら、ダイジェスト版の次に原書を読んだらよいのである。
 収載された31話中の第10話が『菊の姉弟』、原題を『黄英』という。主人公女性の名であるが、あるいは「菊」という意味があるだろうか?すぐには調べあたらぬものの、菊科のタンポポを「蒲公英」と書くことなど、それらしい気配がある。英は「はなぶさ」と読むのだったな。
 道士・動物変化・亡者といった、ぎとぎとした話の多い中で珍しくも颯爽たる菊がテーマ、しかもわりあい長い。清貧をめぐる議論や夫婦の駆け引きなど、内容も豊かである。これなどは原文で読んでみたいとサーチしていたら、思いがけず太宰に行き当たった。
 面白いことがあるものだ。そして見事な、書き手ならではの翻案である。
 太宰は好きになれずにいたがこの一篇で宗旨替え、しても良いような気になった。下記のリンクに飛ぶ前に、聊斎志異のオリジナルを少年文庫版ででも読んでおきたい。それが太宰自身の順序でもあった次第で。

  

Ω





クロイツェル・ソナタ

2020-04-21 07:37:30 | 読書メモ
2020年4月17日(金)
 お達し通り、日用品の買い物以外の私用外出はいっさい控え、散歩に出る時も人の多い桜の樹下を避けているが、週一日の外来診療は強制力をもって止められない限り、止めるわけにいかない。
 朝の空いたホームで長身の男性の後ろに並んだところ、振り返った視線に非難の色があった。もう少し離れろと言いたいのであろう、おとなしく一歩退いた。
 患者さんもわかっていて、今はずいぶん来院者が少ない。この状況下でやってくるのは、薬であれ面接であれ切実な必要を感じている人々がほとんどで、そのことが診療を進めるうえで大事なヒントにもなる。

 往復の電車で『クロイツェル・ソナタ』に読みふけった。先月の誕生日に贈られたものだが、その発想がちょいと洒落ている。

 つまり・・・
    

 という仕掛けである。ヤナーチェクにこういう作品があるとは知らなかった。左二者の関係はよく知られているが、実を言えばトルストイのは読んでいない。ドストエフスキーが真に非凡、トルストイは偉大だが凡庸と、アサハカにも思い込んでいた痕跡である。
 最初に『復活』を読んで楽しめず(高校生が読んで楽しいはずがない)、次に『戦争と平和』を読んで大いに驚いたが、終章の歴史観やらベズーホフ夫妻のおさまりかえった様子やらに興が冷めた。『イワン・イリッチの死』は授業の好素材、『光あるうちに光の中を歩め』等の短編や民話集は、折に触れて読み直すという具合。
 『アンナ・カレーニナ』と『クロイツェル・ソナタ』は今日まで読まずじまいで、それを知ってか知らでか息子の茶目っ気である。

***

 で、お初に読んでみて、これは引き込まれた。たとえば、旅先で受けとった妻からの手紙に微かな疑念を抱いた主人公が、矢も楯もたまらずモスクワに引き返す道中の描写の見事なこと!
 それにしても、この内容の小説に『クロイツェル・ソナタ』と銘打つあたりが、トルストイ翁のまことに不思議なところである。作者自身の「あとがき」というものがくっついており、この作品で伝えたかったことの要旨を5項目にわたって解説しているのだが、小説の道徳的な主題を理屈っぽく解説して面白いはずがない。その間、小説そのものの面白さは、説教じみた御託宣をはるかに乗り越えてしまっている。その乗り越えた部分を象徴するのが『クロイツェル・ソナタ』という音楽だから、このタイトルを付けることによって、著者は自分自身が大まじめで開陳する道徳的な動機を自らせせら笑っているに等しい。

 「たとえば、このクロイツェル・ソナタ、殊に最初のプレストですね、一体あれをデコルテを着た婦人たちの間で、普通の客間の中で弾いてもいいものでしょうか?あのプレストを弾いて、後でお客の相手をし、それからアイスクリームを食べたり、新しい市井の風評を語り合ったりしていいものでしょうか?ああいう曲は、一定の厳粛な意味のある場合にのみ奏すべきで、しかもその音楽に相当した一定の行為を必要とする時に限ります。つまり、演奏された音楽の呼びおこす気分に従って、行為しなければなりません。その反対に、行為をもって表現されないエネルギイや感情を、やたらに時と場所を考えずに呼びさましたら、それは恐るべき反応を示さないではおきません。少なくとも、わたしにはこの曲が恐ろしい作用を及ぼしました。」
(米川正夫訳、岩波文庫版 P.115-6)

 このように矛盾を孕んだトルストイという存在を解釈するのに、とても役だった誰かの文章があり、そこではまずギリシアの詩人アルキロコスの言葉が紹介される。
 「狐はたくさんのことを知っているが、ハリネズミはでかいことを一つだけ知っている」
 この箴言を、引用者は次のように解釈する。
 「一方では、いっさのことをただ一つの基本的なヴィジョン、ある程度論理的に、またはある程度明確に表明された体系に関連させ、それによって理解し考え感じるような人々 ー ただ一つの普遍的な組織原理によってのみ、彼らの存在と彼らのいっていることがはじめて意味を持つような人々と、他方では、しばしば無関係でときには互いに矛盾している多くの目的、もし関連しているとしてもただ事実として、なんらかの心理的ないし生理的な理由でかんれんしているだけで、道徳的、美的な原則によっては関係させられていない多くの目的を追求する人々とがあり、その両者の間には、大きな裂け目が存在している。」
 この解釈に従って、論者は第一の部類の人々をハリネズミ族、第二の部類の人々を狐族と命名する。
 ダンテをはじめとして、プラトン、ルクレティウス、パスカル、ヘーゲル、ドストエフスキー、ニーチェ、イプセン、プルーストは「程度の差こそあれ」ハリネズミ族。
 シェークスピアを筆頭に、ヘロドトス、アリストテレス、モンテーニュ、エラスムス、モリエール、ゲーテ、プーシキン、バルザック、ジョイスは狐族。
 これだけの準備をしたうえで、論者は次のように述べる。
 「私が提出したい仮説によると、トルストイは本来は狐であったが、自分はハリネズミであると信じていた。」

 けだし名言、『クロイツェル・ソナタ』という作品とこれをめぐるちょっとした騒動が、この仮説を支持する申し分のない証拠となっているように僕には思われる。

***

 出典について ~ 「トルストイ=自分がハリネズミだと信じ込んでいた狐」説をどこで読んだか。
 僕はてっきり、トーマス・マンの『ゲーテとトルストイ』(山崎・高橋訳、岩波文庫版)だと思い込んでいた。ところが手許の同書を見直してみても、この説にはまったく触れていないのである。
 狐につままれたような、それともハリネズミにつつかれるような不安と焦慮に、しばらく苛まれた。自分の灰色の脳細胞はどこへ行ってしまったんだろうか・・・
 そして思い当たった。
 アイザイア・バーリン『ハリネズミと狐 ー 『戦争と平和』の歴史哲学』(河合秀和訳、岩波文庫)、これだ!



 「彼が本来そうであったものと、自分でそうであると信じていたものとの対立は、彼の歴史観、彼がもっとも見事でもっとも逆説的な文章を捧げた歴史観の中で、きわめて明瞭にその姿を現している。このエッセイは、彼の歴史理論を論じ、彼が抱いていた見解を現に抱くようになった動機と、その源泉と思われるものを考えようとする試みである。要するにそれは、トルストイの歴史に対する態度をまじめに考えようとする試み、彼自身が自分の本の読者に真面目に考えてほしいと思ったとおりに、真面目に考えようとする試みである。しかしトルストイとわれわれでは、その理由にいささかの違いがある。彼が全人類の運命との関係で考えようとしたのにたいして、われわれはむしろ一人の天才に光をあてるために、それを試みるのである。」
(上掲書 P.12-3)
Ω