平成の初め頃、高度成長期~バブル時代の拝金・物質主義に対する反省からか、
「目に見えないものの大切さ」とか、
「精神文化」的なものを尊ぶような気風が生まれつつあったように思う。
たとえば龍村仁監督の「ガイアシンフォニー」シリーズに出てくる人たちの考え方に共鳴するような。
しかしそれもあの「オウム事件」で、
バーッといきなり頭から水を浴びせかけられたように沈静化した。
あれ以来、下手に「目に見えないものの大切さ」とか「精神文化」的なことをいうと、どこか「オウムっぽい」という文脈に回収されるような風潮も形成されたように思う。例えば2005年くらいまで、「ヨガをやっています」なんていうと、「オウムですか?」みたいな偏見が確実にあった。気功とかもそうだし身体論なんかもそう。そういう意味でもオウム事件でとばっちりを受けた人、相当いるんじゃないかな。
オウム真理教教祖及び幹部が処刑され、今、世間では色々言われている。
「日本人は結局、オウム事件が何だったかよく議論せず、うやむやにしたまま終わらせてしまった」という言説もよく耳にする。それは確かにそうだけど、実際の所、下手に議論して変なこと言うと人格すら疑われてしまうようなトピックなので、みんなが触らぬ神にたたりなしで避けてきたんじゃないかな。
学校でも家庭でも社会でも、そういう議論の訓練なんで受けてないし。
有識者なんかもそう。失言するとそれこそ、職を失う可能性もあるし。
超ハイリスク、ノーリターン、そりゃまあ誰も言及せんよ。
だけど結構、黙ってじっくり考えてきた人間も多いと思う。
特に「とばっちりを受ける」筋で飯食っている人は、考えてると思う。
そして成熟したセンスを身につけた人も多いと思う。
「目に見えない物の大切さ」とか「精神文化」的な物事に対して。
実は、以外とみんな、考えてんじゃないかな。
原発のことなんかと同じで、マスメディアや為政者よりむしろ市井の人たちの方が。
日本人はそんなに馬鹿じゃない。
人ではなく、日本式「システム」がおかしいだけ。
まあぼくなんかが思うのは彼らが「自然に対してどういう考え方を持っていたのか」ってところ。たとえば日本の神々は皆自然から生まれたのだし、外来の仏教も日本特有の自然場所で在来の神々と習合することにより根付いたものだ。神や仏がどうこういうオウムだったけど、あれほど「自然」のセンスを感じさせない集団もなかった。オウムの連中ほど海、山、川をまったく連想させないアイコンはない。
だからなんか気持ち悪いんだと。
というようなことを今日、南紀田辺湾ツアーで、南方熊楠ゆかりの神島周辺を漕ぎ周りながら考えた。
あの南方熊楠ならばどう言っただろうか、と。