今日は
福井・高浜1泊2日シーカヤック&グルメツアーの予定だったんだけど、悪天候により中止としたので、ちょっとしばらく手が回らなかったブログをダーっとアップさせてもらっています。窓の外ではゴーっと風が鳴ってます。やっぱり風、強いですね。
さて、高浜の海岸ってひなびた風情があって、さらに洞窟や断崖絶壁のワイルドな場所が目白押しで、しかも時折イルカも現れてカヤックの横を伴走してくれるという、大好きなフィールドなのですが、一方、原発もあるんですよね。
上から二番目の写真がちょうど、シーカヤック上から見た高浜原発です。ぼくは本州、四国、九州、北海道の全海岸線を漕いだ経験があるから必然的に日本の全原発を海から見ていることになるわけですが、そこに身を置くと、なかなかシュールというか、不気味というか、心と身体の奥底から独特のえも言われぬ感情・感覚が湧き上がってくるものです。
また同時に、原発ってものすごく美しかったり、絶景だったりする場所のすぐ近くに立てられていることが多いという特徴もあります。この上から3番目の写真はちょうど高浜原発の近くの「音海断崖」というなかなか見事な断崖絶壁なのですが、こういうところの際キワを漕いでいると、えも言われぬ神々しい感情・感覚が湧き上がってきます。
で、つまりはその場に身をおいていると、その両方のえもいえぬ感情、感覚が自分の中で微妙にクロスしたりするってことなのですが、それが非常に気色悪いというか奇妙な気持ち・・・、誤解を恐れずに言うとある種の神秘めいた感覚が心の深いところからにじみ出てきます。そして、心の中で両者がクロスすることをなんとか抗おうとする意識が生まれます。似て非なるものというか、「原発の不気味さなんかと自然の神々しさを感じる俺の感性が交じり合ってたまるか」、というきわめて人間的な感情、理性ってやつです。意識の上ではクロスしないのですが、就寝中夢の中で無意識にクロスするような感じになるときがあります。人類滅亡、世界の終わりのようなとんでもない悪夢を見てしまう、ということがその現われでした。日本一周シーカヤックジャーニーの最中に、そんなことがぼくには何度かありました。
また、興味深いことに、そういう場所は縄文時代には神が祭られていた聖地だったりもします。
言い換えると、
自然と共生した縄文人はそこに「神」を奉り、
自然から搾取しまくる現代人はそこに「原発」を奉る、
神話的な深層心理の現れなのかもしれません、
非常に象徴的なものが見えてきます。
先史時代の神話と、現代の神話。
ほんとに象徴的だよね。もちろん気味悪いもんだよ。
で、そういうことを考えてるとなぜか岡本太郎のことを思い出すのです。
やはりあのひとはとんでもなくすごい芸術家だったぜ、と。
ほら、「芸術は爆発だー」と彼は言っていましたが、
ある意味あれは、原爆や原発の象徴です(ややこしいがもっと厳密に言うとそれらが象徴するものの象徴)。
また縄文時代の土器の価値を戦後最初に見出したのはほかならぬ岡本太郎で、
そいつに影響を受けた神話的象徴があの「太陽の塔」(写真上から4番目)ってやつだったのです。
つまり現代というものの本質と人間精神の本質とをふかーいところまで見抜き、
原爆や原発が象徴するものに取って代わる、新しい価値を作り出そうとした。
それが岡本太郎の芸術世界観なのです。ぼくはそう思います。心の中でギリギリのスレスレまで危ないところまで行き、そこから表現しているわけです。アートって小洒落たものだと思われがちだけど、こういうのが本物なんだと思います。
岡本太郎って芸術家であると同時にかなり優れた人類学者でもあったわけだけれど、例えばこんな本を読むとぼくの言っていることがよく分かると思います。
http://homepage3.nifty.com/creole/taro.htm
なお余談だけど、太陽の塔と同じく高度成長期のシンボルとされた「鉄腕アトム」ってのが、原子力に象徴される科学進歩の輝かしい側面を描いたアニメだとすれば、同時代に作られた「妖怪人間ベム」ってのはその裏暗部を描いた作品だとも言えます。
覚えている人は、両者のテーマソングを歌ってみてください。
A 「空を越えてラララ星のかなた、ゆくぞアトム、ジェットの限り、心やさし、ラララ科学の子~、10万馬力だ鉄腕アトム」
B 「闇に隠れて生きる、俺たちゃ妖怪人間なのさ。人に姿を見せられぬ、獣のようなこの体、早く人間になりた~い。暗いさだめを吹き飛ばせ、ベム・ベラ・ベロ~、ようかいにーんげん」
ぼくは妖怪人間ベムのほうが奇麗事じゃないので好きだ。