12月5日(土)、名張の青蓮寺湖にて、紅葉カヤックツアーを行います。
初めての方もオーケー。
詳細はこちら。
http://homepage3.nifty.com/creole/shourennji.htm
カヤックは年がら年中楽しめるアウトドアであり、春夏秋冬それぞれ四季折々の自然を敏感に感じることのできる最良のアクティヴィティです。どうしても夏のものと思われますが、いや、夏よりむしろほかの季節の方がダイナミックに、かつ繊細に、海の鼓動、息吹を感じることができて面白いです。と、まあ、いくら言ったところでやはり夏に集中する傾向はなかなか変わらない現状がありますが、意欲的な方は少人数制となるこの時期にこそレベルアップを図るチャンスです。
当店ではパドリングスキル講習やナヴィゲーション講習といったスクーリングは秋から春にかけて集中して開催しますし、また実際のカヤックツーリングの中でパドリングスキル、ナヴィゲーション両面を磨く「ツーリング講習」というのも開催しています。
ツーリングを楽しみながらの実践的講座で、飛躍的なレベルアップを目指しましょう。
http://homepage3.nifty.com/creole/touringschool.html
今日はウォーターフィールドのシメスタ500の新艇の進水式に立ち会う。
ウォーターフィールド社のシーカヤックは最も信頼のおける国産カヤックメーカーで、アイランドストリームでもイチオシにお勧めしています。何が違うかというとやはりビルダーの水野氏ご本人がシーカヤッカーであり、高い職人気質をもって作られているところですね。作る人が、シーカヤックをやる人なのかどうかというのは当たり前の話だけど重要な点で、やはりカヤックツーリング、カヤック旅する人の側に立った艇は、その人がやらないとわからんところもあると思うんですね。やらんと、ユーザーの要望とか、言ってることも理解できんだろうし。
細かいところまで計算された作りでありながら、シンプル。メンテナンスフリーでトラブルなく末永く使える艇のラインナップ。やはり本当にシーカヤッキングが好きで作られていることが、使っているうちによく分かってきます。なので、漕げば漕ぐほどほどしっくりきて、「これにしといてよかった」と思えてきます。シーカヤッキングに対するリスペクトを感じられる艇って、世の中案外少ないんですよ。「は?」と思う話ですが。漕ぐこと、ツーリングすること、海旅すること、その行為に対して、その行為をやる人間に対してリスペクトがあるかないか、それは乗ってみるとわかるものなのです。ただの商品ではない、スピリットのこもったウォーターフィールドのシーカヤック。もちろん当店でも販売、取り扱いしています。(艇のラインナップはこちら)
艇選びのアドバイス、ご購入後のスキルやフィールドのアドバイスなども含めて、的確にあなたのカヤックライフをサポートいたします。
先日、関空近くからスタートして愛知まで紀伊半島一周単独カヤック旅をしている女性カヤッカー・サエミちゃんが当店に訪ねてこられました。彼女は愛知県のカヤックショップ「レインボー」さんのスタッフでもあり、いわば同業の仲間です。美しい場所はゆっくり、単調な場所はサーっと漕ぎ、魚影の濃そうな場所ではカヤックフィッシングに興じ、流木の多い浜を見つけてキャンプして過ごすという毎日。それは究極のカヤック旅の醍醐味。やはりシーカヤックの真髄って旅にあるんですよね。男と違って女性の単独海旅は、なかなか大変なところもあると思うけれど、ぜひ無事に実りある素晴らしい旅を!!
出発の朝、ちょうど新艇を配達してくださったウォーターフィールドの水野さんも交え(なんという奇偶な顔ぶれ)業界にまつわる色んな話をしました。その後水野さんは次の配達のため滋賀へ、サエミちゃんは産湯海岸方面に出艇、ぼくは南白浜ツアーのためカヤック積載トレーラーを転がし、それぞれの目的地へと旅立っていきました。
南白浜では前日の豪雨で、ツアーフィールドの河口付近は泥水の流れと風波とがぶつかりあって危険な状態だったので、急遽田辺湾ツアーに変更しました。この日、以前にもお越しいただいた伝説の87 years youngのカヤックガールも参加されました。前線が抜けた後の北西風が結構吹いていてどうなるかなと思いましたが、気持ちのこもった粘り強いパドリングのおかげで神島(かしま)方面に行くこともでき、いい一日となりました。
ちなみにここ神島では、来年の4月22日のアースデイ前後に恒例のゴミ調査&クリーンアップカヤックイベントをしようと考えています。詳細はまたお知らせしますが、皆さんぜひご参加を。
それにしても、女性カヤッカーの存在はうれしいものです。シーカヤックって、最低限のスキルと体力は要るけれど、あとは洞察力や判断力さえ身につければ誰でもできるものです。競技スポーツと比べて、むしろ感性、感覚を豊かにする乗り物なのですが、女性は本来的に海に対する豊かな感受性を持っていると感じます。全ての生命を産み、はぐくむ偉大なる海。心を癒し、落ち着かせ、生き生きとさせてくれる空間。そんな海を全身で感じることのできる最良のツールがシーカヤックです。先入観を取っ払って、もっと増えてほしいと思いますね。
先日のすさみ海岸ツアーは、強風のため急きょ、
日高川ツアーに変更しました。
久しぶりの日高川。
ここは2011年の紀伊半島大水害以降、
ちょっと雨が降りダムが放水すると
すぐに濁ってしまう川になってしまいましたが、
最近ずっと雨が降らなかったので水が澄み、
美しい川面の調べと詩情を感じながら下っていくことができました。
いつも澄んでいたらいいのにな。
なお、この日高川ツアーと前日の産湯海岸ツアーには、
去るシルバーウィークにもお越しいただいた、
内モンゴル出身の中国人Dさんが参加してくださいました。
前日は当店ベースに泊まり、一緒に飲みながら色んな話をしましたが、
これがなかなか面白かったです。
彼が研究しているDNAや染色体の話から、
北京原人、アウストラロピテクス、類人猿、
ネズミ、犬、細菌などのDNAと人間のDNAとの違いなどの話、また、
モンゴルと日本の自然についてなど色んな話題を交わしましたが、
何に満足や価値を見出すかについての話が特に印象に残りました。
先日、中国から彼の友達がやってきた時の事です。その友達と一緒に日本の色んな場所を観光したり、体験したりしたかったけれど、彼らは買い物買い物ばっかりで、とても残念に思ったそうです。自分はどちらかというと体験や経験に価値を見出すけれど、中国人にはまだまだ物にしか価値を見いだせない人が多い。そんな話です。
ま、これは日本も同じですね。
体験や経験といった精神的なものに価値を見出すということは、豊かな先進国でこそ成り立つ文化でもあります。日本も高度成長期にそうであったように、まずはテレビ、車、洗濯機などなど、生活を便利にさせるモノを追いかけるというのが人間の性です。しかしそれらがほぼすべての大衆に行き渡ると、今度は別のものに目が行くようになる。日本ではバブル期を経てバブル崩壊を迎えたあたりから、新たな価値観が求められるようになりました。
そんな時期にアウトドア・アクティヴィティの価値も取りざたされるようになったわけですが、でもまだまだ前時代のモノを追いかける文化も強くあるのも確かです。昔と比べて、どちらかというと本当に必要なものというより、別の虚栄心を満たすためのモノに溢れかえっているような気もします。なにせ企業は、生存をかけて手を変え品を変え、 心理学なども駆使しながらプロのテクニックをもって、必死のパッチで人々にモノを買わそうと躍起になっているわけだから。
だけど一方、そんな物欲主義をちょっと冷めた横目でみながら、
かといって伝統的宗教観に回帰するのでもなく、
体験や経験を通した心の豊かさに価値を見いだす人たちも増えつつあります。
それは日本も中国も同じなんだなと気づかされて、
なかなか興味深かったのです。
多分、今は過渡期なんだと思います。
モノ至上主義の時代は本当はもうとっくに過ぎ去っているのだけれど、
急に舵を変えることはできない。
なんせ、多くの企業はこれまでモノを売ってやってきたわけだから、
企業の体質として急に変えることはできないわけで、
まだ当分消費をあおる社会形態は続いてゆくだろう。
また、インドやスリランカ、インドネシア、ベトナムなど東南アジアでは、
今後さらに購買購買~、消費消費~のモードが加速上昇していくことが予想される。
だけどゆっくりゆっくり変わっていくだろう。
何に価値を見出すか。
モノばっかりあっても仕方がない。
モノはあればあるほど整理整頓に無駄な時間を費やすし、
便利であればあるほど人は不安になる。
人間の心と身体の構造はそういうふうにできている。
黒潮沿線の道標的存在・アコウの木
原発の候補地にもなっていた阿尾・馳出の鼻。見事な神南備型の山。
先日の中紀・産湯海岸でのツアーもなかなか味わい深いものとなりました。
このエリアは半島状で、ちょうど紀伊水道に突き出た形状になっている。
その影響からか、南方からやってくる黒潮の当たりの強いところで、
実際に黒潮が運んできた海流散布植物の「アコウ」の木が町木となっています。
ガジュマルの木のように幹がのたくり、絡み合い、
まさに木の精霊、黒潮の精霊が宿っているかのような樹木で、
ぼくも大好きな木です。
一か所、美しい砂浜に一本見事なアコウの木があります。
その木陰から砂浜を見ると、まさに南国風情いっぱいです。
もちろんその浜も訪問しました。
そして、プチ橋杭岩と呼んでいる岩礁地帯を越えたところにある浜で昼休憩。
その後、産湯湾口を横切り、南沿岸の「馳出の鼻」と呼ばれるエリアを周遊。
ここはちょうど、以前、原発立地の候補地にもなっていた場所ですが(現在完全白紙撤回)、
一方みごとな形の三角錐の神南備(かんなび、神の宿る山という意味)型の山でもあります。
古来海の民はこういう特徴的な形の山を目印にしながら航海したわけですが、
それがゆえに、海の民を見守る神のような存在とも捉えられてきました。
ちなみに海岸線の神々しい場所は、
実際に縄文時代には聖地としてまつられていましたが、
そういう場所に現代はしばし「原発」が建てられていたりします。
(若狭湾の原発なんて全部そう)
聖地的な空間に、
自然を尊ぶ古代人たちは神をまつり、
物質文明を尊ぶ現代人は原発をまつる・・・。
考えれば考えるほど、何かの象徴のように思えて来て気持ちが悪いものです。
原子力、放射能ってやつもまた、超越的な存在ですからね。
とにかくここに原発が立てられなくてよかった。
もし立っていたら、紀州の海はダメになっていたことだろう。
もちろんぼくも湯浅にはいないだろう。
先日、大阪府和泉市にある、大阪府弥生文化博物館の秋季特別展、
「海を見つめた縄文人」(放生津潟とヒスイ海岸)、
を観覧に行きました。
「日本海を舞台に躍動する縄文人」というキャッチコピー。
単純に「暮らす」という言葉ではなく、
「躍動する」という言葉を選択しているのが面白くて、
「果たして何をもって躍動だと言っているのだろう?」
と思って見に行ったわけですが、
狩る、釣る、採る、食べる、作る、交流する、
というシンプルな暮らしの中に、土器や土偶、ヒスイの宝物などを通して、
まさに「精神文化」の躍動を感じることができました。
面白かったのは、ここは「弥生文化博物館」というだけあって、
弥生時代の遺物をたくさん展示したコーナーも常設されているのですが、
縄文~弥生という両者の時系列の流れがよく分かったことでした。
縄文文化と弥生文化には共通点と同時に、全然違う差異もあるわけですが、
その辺がよく比較でき、色々考えさせられたというわけです。
とくに印象に残ったのは、
縄文でも弥生でも斧や矢じりが使用されたのですが、
縄文時代では石で造られたそれが、漁や採集として使われ、
一方弥生時代には鉄で作られ、戦争で使われるようになったということでした。
その差は並べ比べて鑑賞することにより、
いろいろと感じ、考えさせられるものがありました。
そんな機会はなかなかないですからね。
縄文時代はまったく争いがなかったという人もいれば、
いや多少は戦があったという人もいます。
だけど確実にいえることは、相手を完全に壊滅させるとか、
カタストロフ(大きな破滅)に至らしめるような戦争はなかったと考えていいでしょう。
旧石器時代と合わせて、そんな平和がこの列島では約10,000年ほど続きました。
たびたび大きな戦争が起こるようになったのは約2000年前の弥生時代からで、
その系譜が現在も続いています。
そういう意味で石の矢じりと鉄の矢じり、色々考えさせられるものがありましたね。
狩猟・肉食が野蛮で農耕・菜食が平和的というのもほんとかなとか、色々とね。
それから、よく「人間の歴史とは戦争の歴史だ。戦争が人間の本質だ。だから人類が続く限り戦争がなくなることはない。戦争は仕方ない、必要悪だ」という意見を述べる政治家のオッチャンなどがいますが、よくよく考えると戦争の歴史になったのはここ数千年くらいのもので、それ以前の大した戦争など起こさず暮らしていた数万年の方が遥かに長いはずだろう。何言ってんの? あんたが戦争したいだけなんじゃないの? とかそういうことも考えましたね。
そしてもうひとつ印象に残っているのは、縄文時代の貝塚を分析して、
基本的に小さな貝はとらず、大きな貝も季節がらなどを考えながら、
採りすぎないように細心の注意を払っていることを示しているコーナーでした。
常に種の維持を意識して、
つまり次世代まで続くみんなの財産として生態系全体を見ているその目線。
それもまたひとつの「精神文化の表現」として、
今を生きるぼくらに訴えかけてくるものがありました。
目先の利益のみを追求して、干潟を埋め立てたり、川をコンクリ詰めにしたり、無駄に自然を壊す現代人より遥かに洗練された精神性なのではあるまいか? 自然から搾取するのではなく、共生するエコロジー思想によって一万年続いた精神文化。
あと、縄文時代の「交流」というものにも興味がわきましたね。
当時、糸魚川のヒスイは呪物や宝物として日本全国に広まっていったことからもわかるように、縄文人は海の道を使ってかなりの距離を移動、交流する民でした。その際の足として使われた舟が、ぼくらが乗るシーカヤックをもうちょっと大きくした帆船カヌー(古事記には枯野(カノー)などと記載されている)だったわけですが、まあそれも平和利用ですね。他者を屈服させに行く戦艦ではなく、他者と交流するための道具。
実際日本列島というのは、南北が長く、北東に行けば北海道や千島、アリューシャン列島、アラスカ、北中南米と繋がっていく筋があるし、北西に行けば中国大陸やロシア、朝鮮半島というルート、南に行けば琉球、フィリピン、インドネシア、オーストラリア、ニュージーランドという回廊、そして東に行けばメラネシア、ミクロネシア、ポリネシアへと至る海の道と繋がっている。
で、実際に縄文人はそれら遠方にまで航海、移民していたという説もあるくらいだ。
その正否はともかくとして、東西南北全方向の他民族との接触や交流があったことは間違いないだろう。
それを一筆書きでつなぐのが「黒潮」という海流ですが、縄文というフィルターを通すと、不思議に、日本列島とは、世界全方向に広がっていくターミナル駅みたいな、自由で平和で豊かな場所であるという想像が膨らんできて、俄然面白くなってきます。
心の「躍動」ですね。
・・・と言っても、「ふーん、あっそう」、くらいに思うのが一般人のリアクションでしょうが、
シーカヤックをやっているとそういうことがリアルな実感として、
面白くなってくるのです。
だからこそシーカヤックをやっているというところもあります。
平和を尊ぶ「多元グローバル主義」、それがシーカヤッキングの真髄たる世界観なのです。
(ただのレジャーだと見くびってなめんなよ)
まあ、「海を見つめた縄文人」というテーマなので、
「海を渡った縄文人」についての展示はなかったですが、
そういうことも連想させる内容でした。
この特別展、12月6日までやっています。
興味のある方はぜひ足を運んでみてください。
それから、そこに置いてあった、
「縄文ZINE」という不思議なフリーペーパーを発見しました。
「都会の縄文人のためのマガジン」というキャッチで、
創刊号のようでした。
ぺらぺらとめくると、縄文土器や土偶、文化のことが、
おちゃらけたノリで掲載されていて、面白かったです。
マンガや(縄文マンガ、どきおくん)、
ギャルに土偶と同じポーズを取らせた「読モ」ならぬ「ドグモ(土偶モ)」
などのコーナーもある楽しい内容で、さっそく編集部に連絡して、
当店でも置かせてもらえるよう手配しました。
というわけでアイランドストリームにもありますので、
興味のある方はどうぞお越しいただき持ち帰ってください。
日高川沿いの矢筈岳(810m)、
ここも紀州のアウトドアフィールドとしての懐深さをとくと感じさせる山だ。
登山口近くに気品ある鷲ノ川滝があって、
その周囲から長く続く川沿いの道にかけて、
モミジ、カエデを中心とした紅葉が素晴らしい。
(やはり温暖な紀州、紅葉は11月末から12月か)
そして頂上付近の、
弓の弦をかける部分のようなやせ尾根と、
そこから見える紀伊山地の山並み。
蛇行する日高川。
日の岬から南紀白浜にかけての紀伊水道の光り輝く海。
海の波のように重々と連なる山の峰々を眺めていると、
その向こうは水平線のように、
そして下界は海の底のように思えてくる。
まるで透明度800mの海水のようだ。
タイ飯が好きでシーカヤック&キャンプなどではよく焚火でタイ飯を作りますが、ちょっと前にイシダイでタイ飯を作ったらこれがとんでもなくおいしかった。真鯛よりも脂が乗り、身ももっちりしていて、だけどあっさりしている。なかなかイシダイは手に入りづらいけれど見つけたら作ってみよう。あの個体が最高だったのか、あるいはイシダイそのものが激うまなのか、判別したいからね。
湯浅からほど近い日高川沿いには、
ワンデイ・トレッキングにすごくいい山がたくさんあって、
晩秋、初春あたりにぼくはよく訪れます。
ここは真妻山(523m)。
美しい滝と紅葉、360度開けた展望の山頂が見どころの山だ。
(先日行った時は紅葉はまだ、11月終わりから12月頭にかけてがいい)
紀伊山地って本当に山深いところで、
果てしなく続く峰々を山頂から見つめると
押し寄せる海の波のように思えて来て、
不思議に、面白い。
果てしない波の連なりとは、
異文化とか、異国とか、
知らない世界へのイマジネーションを喚起するものだ。
それは重畳とした山々の連なりを見ても、なぜか同じだ。
こういう、一見平凡、だけど非常に味わい深い山に登ってみると
紀伊半島、和歌山は海、山、川といった自然環境に恵まれていて、
ほんといいところだなあと改めて思います。
だけどアウトドア・アクティビティに興じているのはごく少数。
とくに和歌山県民はアウトドアにあんまり理解がない。
(人と話していて残念というか、ガックリくることが最近多い)
奈良、京都は歴史文化、
大阪、神戸は都市文化と、
近畿地方はそれぞれその特色がわかりやすく色分けできるけれど、
和歌山は宙ぶらりん。
「近畿のオマケ」と言われることもありました。
海、山、川と多様な自然がふんだんに残っている自然文化の国。
それが和歌山の特色。ならば、
アウトドア・アクティヴィティの価値をもっと大事にしたらいいはずなのに、
和歌山人はなぜかそこには目を向けない。
なので現状、京阪神の人達にアピールしていくしかないのだけれど、
紀伊半島の自然、その美しさ、素晴らしさ、多様性、楽しみ方を、
アイランドストリームでもっともっと伝えていきたいと思っています。
この真妻山は、地味だけど味わい深い、
和歌山のアウトドアフィールドの懐深さを改めて感じさせる山。
展望のよい山の頂上のススキ原は海のようで好きだ。
光に照らされて風になびく穂は西日の波立つ海面に似ている。
そこから見下ろす下界は、まるで超透明度の高い海の底。
先日の岩湧山に引き続き、
大峰山系の観音峰へ。
紀伊山地には1dayで完結する、
気ままにトレッキングできる山がいっぱいあって面白い。
一回一回が味わい深い短編作品のような山行となって心に残る。
そんなのをたくさん積み上げていきたい。
大峰山系のあらゆる山々から流れ来る水が集まる天河は、
まるで美しい水のターミナル駅、ハブ空港のようなもので、
ここを基点として周囲あちこちの山を登るのが好きだ。
ハブ空港からあちこちへと旅立ってゆく飛行機のように。
そして、頂上に広がる360度の展望は海と同様であり、
見下ろす下界は、超透明度の高い海の底。
山の頂上のススキ原をふと見に行きたくなって、泉南の岩湧山へ。
風になびくススキと頂上から沸き立つ雲。
見上げる大空と見下ろす大阪平野。
いつものメインフィールドの海と違って、
ごく一般の人達がたくさん登り、
頂上でのんびりとした時間を過ごしていて、
いいなと思った。
春から秋にかけて、ずーっと海にいることが多いけれど、
たまに山に登ると、
海化した体の細胞から塩気がすーっと抜けてゆくようで、
すごく気持ちいい。
海から水蒸気が立ち上って雲になり、
雲が山にかかって雨を降らせるように、
自分の身体の水分を通して海と山とがつながったような感覚。
・・・・あまりにも感覚的な話だけど、
海を渡り、山を登るという二つの行為は、
すごくいい心身のバランスをもたらしてくれることは確かだ。