その後コロンボにバスで戻ってきて、北部沿岸沖の航行の許可書を得るために国防省、日本大使館、海軍、観光局を回った。
国連の国際海洋法における無害通行権などの話もしたけれど、結局誰も何をどうしたらいいのか分からず、いったん許可書を発行したら責任が生じるため、タッチしたくないようだ。日本大使館はISISの一件以来、特にナーヴァスになっているようで、こっちが気を回したくなるくらいだった。結局、もし万が一何かあった時の、日本のマスコミやネット世論のバッシングを気にしている、その一点に尽きる気がした。だけど正直に言うと、シーカヤックで何かが起こる確率よりも、スリランカで道を歩いていて事故が起こる確率の方が遥かに高い。交通ルールがまるでなってないからだ。
だが、責任という意味ではそんな話は通用せず、なかなか許可書は出してくれない。
例えば道を歩いていて車にひかれたとする。この場合、大使館は一切関係ない。事故を巡る当事者間のみの責任であって、大使館側は然るべき事後対応をすればいいだけである。だから歩く際に許可書などいらない。しかし、シーカヤック航行の許可を承諾した際には、もし海で事故が起こった場合、いくらこちらが自己責任で海旅しますと誓約書を書いたとしても、大使館側も何らかの責任を問われる可能性は有している。
そういう論理だ。
日本のマスコミや世論は確かにそういう所を突つきたがるからナ。
基本的に彼らは1%の責任も負いたくない機関だ。
また次の一点にもこだわってたな。
国を通したイベントならば考えるが、個人的なイベントには、
肩入れするわけにはいかない、と。
だけど団体だろうと個人だろうと、民主主義国家の日本。
主権は日本国民にあるわけで、税金を払ってぼくらは彼らを雇っている。
肩入れとかではなく、ただ通行の申請に来ているだけである。
別にサポートしてくれと言ってるわけではない。無理なお願いをしているわけではない。
通行許可を出してくれと言ってるだけだ。
というより、Navyや国防省が、
大使館の了承を得たら通行許可書を出してやると言ってるから、出頭しただけだ。
Civil servantという意味では、任務を怠っていると考えることもできよう。
結局、観光局が一番マシだった。カヤックという存在を知っていて、「あなたの素晴らしい旅を応援している、何とか交渉するので数日くれ」という話だったが、まあ、あんまり期待していない。
満足までにはまだ少々到っていないが、国全体の70%くらいは漕いだし、無理だったらしゃあないわと思っている。一周するのはあくまで海旅としての目安で、ひととおりの海旅のDEEPさを掘り下げることには最低限、成功したと思っている。あと少々の日々、今一度別場所に移動して海旅を続けてもいいし、仏教のルーツを探る陸旅に転じてもいい。自然観という意味においてシーカヤッキングと仏教は通じるものがあるからな。
まあ、あの日、Navyにたまたま止められたのが運の尽きだった。黙って通り過ぎていたら多分、何もなかったろう。止めた手前、向こうにも義務みたいなものが生じるから、「許可書」とかそういう話になったわけ。
でも「許可書」となると、確かにタイソーだ。
本当は多分、許可書は要らない。
正直、誰も何も分かっていない。
前例のないカヤックは彼らにとって、舟というよりUFOな存在だ。
けれど、この許可書を巡る一件がどのようなところに落ち着くか、できる限りのことをやってみるのが今は興味深い。ムダ足に見えて、すごく色々見えてくるものがあるからだ。万事スムーズに行くことよりも、こういう経験も結構大事なんだよな。
スリランカさんには実にいい旅をさせてもらっているなと、皮肉とかではなく、本当にそう思っている。