一昔前まで「瞑想」などと言うとちょっとヤバい感じの精神世界系の人か、それかもう正統派の禅僧みたいな人のみが傾倒するものだと思われるフシがありましたが、いつの間にかオシャレ系のファッション雑誌などでも取り上げられるようになったりとすっかりポピュラーなものになり、世の中の変化とは面白いものだなあとつくづく思ったりします。
メンタル面での健康も大切にし、生活のクオリティを上げていこうという、
成熟文化の流れが背景に見え、いいことだなあと思います。
こういうものははやりすたりとか関係ないですしね。
ただぼくの場合、
瞑想とかヨガとかの教科書に書かれてあるようなやり方が苦手で、
呼吸を整えたり、ポーズとったりすると、
そのことに意識が取られてしまって、なんかしっくりこない。
ふと時計見たりして「あれ、まだ5分しかたってないんか」とか
しょうもないことを考えてしまう傾向にあります。
また、ただただ自分の精神の内側に入っていくというのも苦手です。
己の至らなさとか、いらんことを考えてしまうからね。
「無」の境地とかいうやつもよくわからない。
どっちかというと内側に入っていくというより、
外界とのつながりを意識しつつ、マインドをトリップさせるほうが面白いですね。
たとえば今ここに吹いてる風を肌に感じながら、
今なんでここにこの風が吹いてるのかな、と想像し、
そこから類推する天気図を心に描いてみるとか、
自分が水陸両用の鳥になって、
恐竜とかが闊歩する2億年前のゴンドワナ大陸を旅してみるとか、
そんなのが好きですね。
緑濃い紀伊半島の山々に入っていって、
黒潮のエッセンスを心に描くとかもそうだけど、
皮膚感覚とか体感が伴ってこそ、
瞑想が成り立つってところがありますね。
っていうか、瞑想だと意識するともうだめなのかもしれない。
意識しない瞑想ってなるとやはりシーカヤックだと思いますね。
なんせ命がかかってくるわけだから、特に自分ひとりで漕ぐとき、
普段より何倍も天候や海況、地形なんかに意識を研ぎすませます。
そうすると自然現象のメカニズムの不可思議さとか、
地球上のありとあらゆる自然場所の面白さとか、
これまで訪れた様々な場所での体感的記憶とか、
それらすべてを包み込む宇宙から見た地球の青さだとか、
そんなものと自分自身の魂とのチューニングが自然に合い、
いわゆるひとつの「プラネット感覚」の豊かさが、
心にしみわたってくるようなのです。
この独特の浮遊感の中、
多分シーカヤックほど瞑想的な乗り物はないんじゃないかと思いますね。
海から上がってもしばらくは海の波うねりのリズムが身体の芯に残っています。
その状態で音楽を聞くという行為も、
音楽の底に流れるリズムやグルーヴと同調でき、
極上の瞑想だと言えますね。
以前シーカヤック日本一周旅の途上、何カ月も海上生活をする中で、
どの音楽を聴いてもまるで自分の身体感覚と、
音符一粒一粒とが同化して流れうねるような体感になり、
というか音楽そのものになったような気がして、
おれもついにヤバい人の領域に入ったのかなと思ったことがありました。
和歌山の潮岬とか九州の佐多岬とか黒潮のぶち当たる岬を
ビビりながら越えたときの達成感等もヤバい系かもしれんと思いますね。
黒潮と同化したような気分する瞬間あるからね。
本物の野性の炎が心にともる瞬間。
昨日は湯浅湾の鷹島を見ながら沖縄音楽を聴いていると
なかなかトリップできましたね。
水平線の向こうに沖縄が幻のように浮かんでくるような感じがありました。
ぼくだけの傾向なのかもしれませんが、
究極的に地球を思い描く瞑想が合っているのかもしれないなと思いますね。
だから洞窟の中で座禅を組み精神の内側に入っていくとかは絶対無理ですね。
で、多分、ほとんどの人はプラネットアースを描く瞑想の方が、
向いてるんじゃないかと思ったりもします。