鎌倉の御朱印巡り、まずは鎌倉駅から江ノ電で長谷に行ってみます。
長谷駅前に到着。
年1回、1/1の夜にだけバスが来るそうです。
この道の先に御霊神社があります。
御霊神社があります。写真が撮影できるのはここまでです。
創建は定かではありませんが、平安後期に鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀って創建されたと考えられています。その後鎌倉権五郎景政のみを祀る神社になったとされています。景政は後三年の役に従軍し、右目を射られながらも奮戦しています。
御霊神社の御朱印です。猫は社務所で飼っている猫がモデルのようです。
鎌倉駅に戻り横須賀線の線路沿いに西側を歩きます。しばらく歩くと扇ガ谷のエリアになり、英勝寺があります。
ちょっとモダンなデザインの山門です。
1636年に英勝院尼により創建された浄土宗の寺院です。英勝院尼は太田道灌の5代目にあたり、太田重政の妹になります。家康は自らの関東支配を確実なものにするため没落していた関東武士の救済を行っており、重政にも出仕の話が来たものの当時京都にいたために名代として英勝院が江戸城に参上し、家康が気に入り側室としています。
その後家康との間に市姫が生まれ、伊達政宗の嫡男・忠宗に嫁がせる話もありましたが4歳で亡くなってしまいます。英勝院はその後1636年に太田道灌の邸宅跡であったこの地に寺を開くことを許され英勝寺が創建されました。英勝院が水戸の徳川頼房の養母となった縁で代々住持が水戸の姫が務めていたそうです。
水戸徳川家の支援がなくなった現在も尼寺であり、花の寺として現在に至っています。
もう一つの見所はこの竹林。報国寺の竹林があまりにも有名ですが、英勝寺はあまり拝観客が多くないので静かに見ることができます。
1643年に建てられた仏殿などが今も残っています。
英勝寺の御朱印です。
横須賀線の線路を渡って東側へ。浄光明寺があります。
浄光明寺は1251年に5代執権の北条時頼が開いた真言宗泉涌寺派の寺院です。6代執権の北条長時が浄光明寺に葬られたことから長時の子孫も浄光明寺を菩提寺としています。その後足利家や鎌倉公方の庇護を受けましたが江戸初期に荒廃、その後鶴岡八幡宮の援助を得て再興されています。
今日は国の重要文化財に指定されている阿弥陀三尊像が公開されています。京都の同時代の様式とは細かい部分が違っており興味深いです。
浄光明寺の御朱印です。
さらに続きます。
長谷駅前に到着。
年1回、1/1の夜にだけバスが来るそうです。
この道の先に御霊神社があります。
御霊神社があります。写真が撮影できるのはここまでです。
創建は定かではありませんが、平安後期に鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀って創建されたと考えられています。その後鎌倉権五郎景政のみを祀る神社になったとされています。景政は後三年の役に従軍し、右目を射られながらも奮戦しています。
御霊神社の御朱印です。猫は社務所で飼っている猫がモデルのようです。
鎌倉駅に戻り横須賀線の線路沿いに西側を歩きます。しばらく歩くと扇ガ谷のエリアになり、英勝寺があります。
ちょっとモダンなデザインの山門です。
1636年に英勝院尼により創建された浄土宗の寺院です。英勝院尼は太田道灌の5代目にあたり、太田重政の妹になります。家康は自らの関東支配を確実なものにするため没落していた関東武士の救済を行っており、重政にも出仕の話が来たものの当時京都にいたために名代として英勝院が江戸城に参上し、家康が気に入り側室としています。
その後家康との間に市姫が生まれ、伊達政宗の嫡男・忠宗に嫁がせる話もありましたが4歳で亡くなってしまいます。英勝院はその後1636年に太田道灌の邸宅跡であったこの地に寺を開くことを許され英勝寺が創建されました。英勝院が水戸の徳川頼房の養母となった縁で代々住持が水戸の姫が務めていたそうです。
水戸徳川家の支援がなくなった現在も尼寺であり、花の寺として現在に至っています。
もう一つの見所はこの竹林。報国寺の竹林があまりにも有名ですが、英勝寺はあまり拝観客が多くないので静かに見ることができます。
1643年に建てられた仏殿などが今も残っています。
英勝寺の御朱印です。
横須賀線の線路を渡って東側へ。浄光明寺があります。
浄光明寺は1251年に5代執権の北条時頼が開いた真言宗泉涌寺派の寺院です。6代執権の北条長時が浄光明寺に葬られたことから長時の子孫も浄光明寺を菩提寺としています。その後足利家や鎌倉公方の庇護を受けましたが江戸初期に荒廃、その後鶴岡八幡宮の援助を得て再興されています。
今日は国の重要文化財に指定されている阿弥陀三尊像が公開されています。京都の同時代の様式とは細かい部分が違っており興味深いです。
浄光明寺の御朱印です。
さらに続きます。