父について、祖母または祖父が何を如何云ったのか私は知らないが、彼等が親の心構えとして何かしらの忠告や助言をしてくれたのは確かだった。何故なら父は、それ迄の様な私を疑うという態度を一変させたからだ。私の仕業だという様な言葉を一切言わなくなった。その点私は父は変わったなと感じた。
父はその後追々とだが、諸事に対して、「お前ならどうする?。」と言う様な言葉や語り掛けを私にして来る様になった。
「困った事が有ってな、お父さんは如何しようかと迷っているんだ。」
そんな事を言ってみたり、こんな時お前なら如何する?と、浮世の四方山話の相談を受けた。父はあれこれと事例を説明すると、その事について私に問いかけて来るようになったのだ。私はそんな時、烏滸がましくもこうしたらいいんじゃないかとか、それは変だ等言って、父とよくにこやかな会話の時間を持つ様になった。この頃の私の判断基準は、祖父母と共に行った宗教講話の教えに由来する処が根本だった。私は未だ複雑な世を知らないだけに、単純で明快なこの様な倫理観の基礎だけしか持たなかったが、それで物事スッキリと割り切れる事が多かったようだ。一点を除けば特に父から苦情も出なかった。幼子に男女の機微は分からない物だ。
私達父子の関係は改善したが、そうこうする内にも、私と母の関係は上手く行かない儘平行線で進んでいた。どちらかと言うと母の方は不満が増した感じだった。私が母の事を理解しようとすればする程、彼女と上手くやろうとすればする程、そんな物分かりの良い品行方正路線の私が、彼女は益々気に食わなくなったようだ。
ある日の事、裏口に1人腰を下ろして、しょんぼりと庭を眺めている母の後ろ姿に、私はこんな時こそ慰めの言葉を掛けなければと近付いた。そうすれば母もきっと私の事を喜んでくれると思ったのだ。
「お母さん、大丈夫?、またお祖母ちゃんと揉めたんでしょう。」
「お祖母ちゃんもお母さんの事を考えていればこそ、あれこれと注意してくれるんだから。」
と、気を落とさずに頑張ってみたらと声を掛けたのだ。私にすると母を励ましたつもりだったが、この物分かりの良い様な言葉が母の癇に障ったらしかった。無言で振り返って私を見た母の顔は、私が予想したそれとは違っていた。彼女の表情は頗る不機嫌その物を表していた。てっきり私の励ましに笑顔で答えてくれる物と思っていた私は、この後予想と反した激しい彼女の感情に出会って衝撃を受けることになる。