『母はあんなところで膝をついて、蹲って、それに動いているようだ。』
何をしているのだろう?。私は母の姿を不思議に思い、また何事だろうかと用心した。先程の祖母の険悪な様子も気に掛かった。その事と今の母の状態が関連しているようにも私には考えられた。
私は警戒して今来た居間に戻ろうか、予定していた通りに不思議な状態になっている縁側に踏み入ろうか、敷居に足を載せた儘で暫く身動き出来ずに躊躇して考えていた。居間か縁側か、危惧か好奇心か。私は内心の葛藤に判断の付かない儘、母の四つん這いになって丸まった格好を目の当たりにしていた。
その内に、私は父と度々散歩に行く動物園にいる可愛い熊を母の姿に連想し始めた。こちらに向いている母の丸いお尻が熊のそれとそっくりだ、四つん這いの胴体の微妙な動きもそうだ。私はつい微笑んで可愛い熊と重なる母のユーモラスな格好を見詰めていた。そして遂に、私の判断は興味の対象に近付く方へと軍配を上げた。その頃私に定着していたイメージの可愛い熊が、未知で現実の危険な熊に勝ったのだ。
私は縁側に足を下ろすと、彼女の背に向かい慎重にぽたぽたと歩き出した。そして彼女が何をしているのかと歩みながら考えた。が、私にはさっぱり想像が付かなかった。
その後母のすぐ後ろに立った私は、暫く小刻みに動く母の背や肩の辺りを見降ろしていたが、細かく動いているのが母の手元だと分かると、彼女の手先をその肩越しに覗く様にして窺い見てみた。が、母の手元は背の低い私には全く見えなかった。これでは私に彼女が何をしているのか窺い知る由も無いという物だ。
『考えるより母に直接訊く方が早そうだ。』
私は最終的にそう判断した。
そこで私はお母さんと声を掛けた。「こんな所で何をしているの?。」。すると母は振り向きもせずに、俯いた儘でそれ迄と全く同じ動作を繰り返していたが、私の声掛けの方にはうんともすんとも返事が無かった。
「お母さん、何してるの?。」
端的に訊いてみてもやはり返事は無い。
私は再び彼女の背を見詰めた。母の様子を具に観察してみると、彼女には沈んだ気配が漂っているのが察しられて来た。これは、どうやら母は怒っているというより元気が無いんだな、と私は判断した。そこで私は警戒心を解いて、「お母さん、耳が聾になったのかい。」と、こんな状態の沈んだ母に有効な、ふざけてお道化た調子で声を掛けた。
すると少し母の肩先が震えた。母は笑ったなと、私はそれを見逃さずにニヤリとした。如何にもしてやったりと思うと、私はもう一押しだなと思い気楽に母の背後から彼女の横に回った。もう一押しすれば母は何時もの調子になり、「もうお前は、」など言ってげらげら笑い出すだろう。笑顔で何か話し出すだろう。何か返事をして来るだろう。そう手応えを感じて私は母の横に立つと、彼女の肩に手を置いて、謎になっていた彼女の手先を覗き込むように自身の首を垂れた。