その時、四郎、と、障子の向こうから祖父の呼ぶ声がした。父は祖父母のいる座敷に顔を向けた。
「そうか、父さんだな。」
こんな合わない時間に菓子等やって、そうぶつぶつ言うと、父は歩き出して障子戸が1枚引かれて開いている縁側の入り口の方へと向かった。そこから座敷に顔を突っ込むと、父さんと、彼は自分の父に文句を言い出そうとした。
「父さんこんな時間に、」
ここで彼はえっ?と言葉を途切らせた。「えっ、何?。」と、父は彼の母である私の祖母と話しを始めたようだ。
開いていている障子の場所からは、普段祖母がいる筈の定位置の場所の方が近かった。父の向ける顔の向きからもそれは窺う事が出来た。彼はうんうんと祖母の話を聞いているようだった、が、少しして私の方を見ると、不承不承の顔付きで、「うっ、云。」と了解したような返事をした。そして俯くと考える様な気配になった。
続いて父はやや沈んだ感じで私の傍へと戻って来たが、ちょっと悪戯っぽそうな顔付に変わると私の前に立った。彼は黙ったまま、私の握っている拳を取り上げた。その時には、もう私の両手はきちんと床に正座した自分の膝の上に載せていた。私は後ろ手にしている事に疲れたのと、隠し事をする事に飽きて来たのだ。私はこの時、正直に怪我を見せてもよいな、見つかってもいいやと考えていた。そして叱られる準備に正座していたのだ。
きちんと縁側に正座して、父にされるままに私が拳を開くと、彼は私の怪我を見てふんと言った。ヨーチンだな。一言の元にこう言われた私は、顔をしかめて如何しても?と問い掛けた。如何してもだな、父はそう言うと顔を私から背けて、何やらふふふと笑いを堪えていた。彼は私の手を離して立ち上がると、
「いやぁ、親子だなぁ。」
2、3歩あるいて縁側の中央へと歩を進めた。彼はそこで立ち止まると、そうかそうかと腰に自分の両の手を当てると胸を張ってすっくと立った。自分も子供の頃は嫌いだった。ヨーチンはな。と言うと、明るい中庭を眺め出した。彼はその儘ハハハと愉快そうに笑うと、「私の子だなぁ。」うんうんと独り言ちていた。
私はてっきり怪我を隠していた事がばれて父に叱られるものだと身構えていたので、この愉快そうな父の様子は当てが外れたという物だった。父の様子は私には解せなかったが叱られずにほっとした。父はそんな私の安堵した様子を横目で眺めていた。
彼は程無くして、しかしなぁと言うと、「嘘はいけないぞ。」と私が久しぶりに聞くこの文言を言った。
「今の場合、嘘というより隠し事だ。」
「親に隠し事はいけないぞ。ちゃんと正直に言うものだ。」
特に怪我した時はきちんと見せないと、後で大事になったらどうするのだ。と、これはやはり叱られたのだが、この時の父の声音は穏やかで優しく、私はもっぱら注意された程度で済んだ。
その後父は縁から出て行き、父に代わって母が私を呼びに来た。
「お前、名誉の負傷をしたんだって。」
母はふざけてそう言うと、廊下の日が届かない場所に有る薬箱の所迄私を伴って行った。薬箱からヨードチンキの箱を取り出してふふふと、彼女は何が可笑しいのかほくそ笑んだ。
その後母は、古いのが切れてね、これを新しく買っておいたんだよ。と言うと、その真新しい箱を開けて、中にたっぷりの液体が入った小瓶の薬を私に見せた。
『ああいよいよだ、年貢の納め時という物だ。』
私はいざという段になると歯を食いしばって手から顔を背けた。神経だけは傷に集中させて、来るべき衝撃に身を引くようにして嫌々ながら備えた。が、この時、如何いう訳かビーンと来る筈の衝撃が私を襲って来なかった。
『おや、あれれ…?』
私が不思議に思う間も無く、母はもうパタパタと薬瓶を元の取り出した薬箱に収めている。
「お薬は?、」
付け無くていいのかと怪訝そうに問う私に、母は言った。
「もう付けましたよ。」
私が意外に思いながらどれと掌を見ると、そこには確かに赤味を帯びた液体が付着していた。液はてらてらと未だ濡れているような感じだ。
『本当だ!。』私は思ったが、今迄の様にぎゃーっと唸るような沁み感が傷口に来ない。その内沁みて来るのだろうか?私が摩訶不思議な気分で塗られた薬の赤い色をおっかなびっくり眺めていると、母が「未だ気付か無いのか。」と言った。
「本当に鈍い子だね。分からないの?、薬の色を見てごらん。」
等と彼女が不満気に言うものだから、私は掌をより詳細に眺めてみた。赤ぽい薬の色だ、何時もと何の変わりも無い。どこが違うというのだろうか?。母の言葉が全く意味不明の儘、私は首を捻るばかりだった。
「ねえさん、そこは暗いから分からないんだよ。」
そう廊下の向こう側、縁側の方から顔を出した祖母が言った。
「智ちゃん、こっちに来て。明るい所で薬の色を見てごらん。」
私は祖母に言われるままに、日の差さない暗い廊下から、祖母の呼んだ日差しの入る明るい縁側へと向かった。明るい光に掌を広げてみる。そこには今迄のような暗い茶色っぽい赤い色では無く、明るい赤い色の薬が塗られていた。
「赤いや!。」
「赤チンだよ。」
祖母が私の言葉に、にこにこして答えてくれた。「これの方が、ヨーチンより沁みないからね。」そう言うと、彼女は私の頭に手を伸ばし、ナデナデと頭を撫でてくれるのだった。