彼は電話の傍に置いてあった電話帳を素早く手に取ると、頁を繰り、自分の持っている紙に書かれた番号と電話帳を照らし合わせました。
自分の懐から手帳を取り出し、そこに挟んであった鉛筆を取り出すと、番号の紙に住所を書き留め、息子の所迄戻って来ました。
彼はやや思い惑うような、後悔するような、しょんぼりした表情を浮かべていましたが、息子にこう声をかけました。
「おい、もう遅いかもしれないけれど、お前子供の病室に急いで戻れ、如何なっているか見て来るんだ。」
そう言って蛍さんの祖父が階段の登り口に目をやると、丁度長兄の嫁がポーンと階段の3、4段目から身を躍らせて飛び降りる所でした。
彼女は軽やかに床に降り立つと、にこやかに彼らの方に顔を向けました。その表情は清々しく明るい微笑みを浮かべていました。まるで純真な乙女のようです。
「あら、お義父さん。」
と何やら笑顔で義父に会釈すると、その後彼ら親子の事は彼女の意識から外れ、
彼女は躊躇すること無くその儘軽やかに玄関へ向かい、
まるで涼風に乗った白い衣のようにすいっと戸口へかき消すように消えて行ってしまいました。
兄嫁はそのまま帰宅してしまい、2度とここへは現れる事がありませんでした。
その兄嫁の凛としておしゃまな様子に、蛍さんの父が、
「あのお淑やかな姉さんに、あんな闊達な面があったとは、」
と感嘆すると、祖父はにこやかに
「あれであの姉さんも、なかなか跳ねこんまなんだよ。」
と、お前知らなかっただろうと満足気に息子に話しかけるのでした。
「良家の子女というのはああいうものなんだね、あれもあの姉さんを気に入っている。」
良い子には良い嫁が付くものだ、あれもあの姉さんのおかげで今後は出世するな。と、目を細めると感慨深く呟くのでした。
そして、1つ嘆息すると、祖父は後ろの息子に振り返り、
「今のあの人の様子で、お前自分の子に何が起こっているか判じられないかね、お前もまだまだ青いからなぁ。」
そう言うと、息子の方は、まさかと胸に思い当たるものが湧いてきます。
「まさか、あの人達が蛍に何かするっていうのかい。」
と彼は父に尋ねるのでした。
「百聞は一見に如かず、私に尋ねるより行って児分の目で見て来るといい。何が起きたか。
間に合えば何が起きているかを見る事もできるだろう。今の場合、間に合った方がいいのか、間に合わない方がいいのか。」
祖父はそんな不思議な事を息子に言って、
「お前の人生の向学の為にも見ておいで。間に合えば本当はいいんだろうがね。」
どうせ助からないんだから、遅くても早くても同じ事だがね、皆苦しみを長引かせたくないと思っているんだよ。
お前だってそうだろう。あの子は可愛いからね、そう思う人間がまだもう1人残っているんだろう。
そう父に言われて、蛍と叫ぶと、彼女の父は反射的に跳び出しました。
「駄目でも長く持ってもらいたいさ。」
彼の表情は真剣そのもの、眉根に皺を寄せて自分の娘の病室のある2階へと階段を駆け上がり、一目散に娘の病室へと向かうのでした。
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