2015.2.22(日)
カタツムリ歩行の姉妹編 とねるず の日。 京葉線 新木場駅 10:00集合です。
朝のうちはあいにくの小雨もよう。 集まったのは全部で5名。
10:01分の電車が着くのを待ち、来る人はなさそう・・・と出発しました。
歩き始めるころには雨は上がっていましたが、雲がどんよりと低くたれこめ くら~い感じ、おまけに天気予報と違い、ものすごい寒さ・・・。
駅の南に貯木場があり、それを見たいというメンバーの一言で近くまで行ってみました。 が、それらしい囲いはあるものの丸太の一本もありません。
今でも貯木場として使われているのかいないのか・・・ 話を聞けそうな人もいないため、スタート地点に戻り駅前交番のおまわりさんに聞くことにしました。
すると、「最近は輸入木材が多く使われるためかここの貯木場は全く使われていない」とのこと。 聞いて納得しました。
貯木場は新木場駅の南側200m先、一度駅に戻り交番のおまわりさんの話を聞いた後、貯木場とは反対、駅の北側の夢の島公園内にある第五福竜丸展示館と熱帯植物館を見学しようということになりました。
埋め立てで出来たという夢の島の公園は駅のすぐ北側150mほどのところですが、さらに少し進んでユーカリ橋を渡ったところから公園に入ります。
橋の上からはユーカリ橋の名の由来となるユーカリの並木が見えました。
公園ではトーテムポールが迎えてくれます。
公園の西側にも大きな総合運動場がありますが、私たちが入った東側の公園内にも一周500mくらいの大きなトラックがありました。 真冬、それに雨模様・・ということもあり人っ子一人おらずもったいないようでした。
第五福竜丸展示館まではトラックの端をさらに300mほど北に進んだところ。
これが展示館入口です。
入口を一歩入ると福竜丸の大漁旗が迎えてくれます。
第五福竜丸は1954年(昭和29)3月1日、太平洋マーシャル諸島にあるビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で被ばくをした木造の延縄(はえなわ)マグロ漁船です。
福竜丸の乗組員が現地で見たきのこ雲。 広島の1000倍もの破壊力だったそうです。
船に降り積もった死の灰に触れたところは火傷状態となり、頭痛や吐き気、目の痛み、歯茎からの出血等があったため急ぎ延縄をしまい、全速力で母港の焼津港に戻り着いたのが2週間後の3月14日。
3月16日、読売新聞が最初にこの事件を報道したそうです。(上の写真右端の新聞がそれ)
真近で見る第五福竜丸は大きく見えますが、広い海に浮かべたら、こんな小さな船で・・・しかも木造船・・・と今の時代なら思うところでしょう。
3月 第五福竜丸は文部省が買い上げ、8月には東京に回航され、10月には東京水産大学に繋留し、残存放射能の検査などが行われたということです。
被ばくから2年後の1956年3月には東京水産大学の練習船「はやぶさ丸」と改名。
改名してから11年後の1967年3月には廃船処分となり解体業者に払い下げられて、エンジンなどは売りに出され船体は夢の島に廃棄されたそう。
1970年には名前を第五福竜丸に戻し、1972年、夢の島公園予定地に陸上固定されたあと、1976年(昭51)6月、展示館完成とともにここに保存されることとなりました。
エンジンを買い取った奥地さんという方は、自己所有の船にそのエンジンを取り付けて使用していましたが1年3ヶ月後の1968年7月に熊野灘沖で座礁・沈没し海中に残されたままとなりました。
座礁・沈没から28年後の1996年12月(被爆から42年後)に海中から引き上げられて、東京都に寄贈され、エンジンだけは展示館の外の庭に屋根付きで展示されています。
外から見た展示館
数奇な運命をたどった第五福竜丸のエンジン。
(外のエンジンを見たのは中の展示をすっかり見たあとのことです。)
展示館内では第五福竜丸の展示とともに 「福竜丸とゴジラ展」 も開催されていました。
梱包用プチプチビニールで作られたゴジラの着ぐるみ(手前)と黄色い絵は・・?? と思ったのですが、後で写真を見るとゴジラが浮いて見え出展された意味が分かった次第・・・。
船べりにはこんな小さなゴジラがたくさん並んでいます。
ゴジラの腕 という作品
広島の原爆ドーム、焼ける前の姿、焼けた後の姿の作品もありました。
入館した時には気がつかなかったのですが、一回りして出口に近づくと、きのこ雲を描いた大きな絵もありました。
千羽鶴もたくさん・・・
原爆は本当にご免蒙りたいですね。
ゆっくり見ていたので思いのほか時間がかかりました。
このあと、熱帯植物園にまわりましたが、そのことは次回に致します。
カタツムリ歩行の姉妹編 とねるず の日。 京葉線 新木場駅 10:00集合です。
朝のうちはあいにくの小雨もよう。 集まったのは全部で5名。
10:01分の電車が着くのを待ち、来る人はなさそう・・・と出発しました。
歩き始めるころには雨は上がっていましたが、雲がどんよりと低くたれこめ くら~い感じ、おまけに天気予報と違い、ものすごい寒さ・・・。
駅の南に貯木場があり、それを見たいというメンバーの一言で近くまで行ってみました。 が、それらしい囲いはあるものの丸太の一本もありません。
今でも貯木場として使われているのかいないのか・・・ 話を聞けそうな人もいないため、スタート地点に戻り駅前交番のおまわりさんに聞くことにしました。
すると、「最近は輸入木材が多く使われるためかここの貯木場は全く使われていない」とのこと。 聞いて納得しました。
貯木場は新木場駅の南側200m先、一度駅に戻り交番のおまわりさんの話を聞いた後、貯木場とは反対、駅の北側の夢の島公園内にある第五福竜丸展示館と熱帯植物館を見学しようということになりました。
埋め立てで出来たという夢の島の公園は駅のすぐ北側150mほどのところですが、さらに少し進んでユーカリ橋を渡ったところから公園に入ります。
橋の上からはユーカリ橋の名の由来となるユーカリの並木が見えました。
公園ではトーテムポールが迎えてくれます。
公園の西側にも大きな総合運動場がありますが、私たちが入った東側の公園内にも一周500mくらいの大きなトラックがありました。 真冬、それに雨模様・・ということもあり人っ子一人おらずもったいないようでした。
第五福竜丸展示館まではトラックの端をさらに300mほど北に進んだところ。
これが展示館入口です。
入口を一歩入ると福竜丸の大漁旗が迎えてくれます。
第五福竜丸は1954年(昭和29)3月1日、太平洋マーシャル諸島にあるビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で被ばくをした木造の延縄(はえなわ)マグロ漁船です。
福竜丸の乗組員が現地で見たきのこ雲。 広島の1000倍もの破壊力だったそうです。
船に降り積もった死の灰に触れたところは火傷状態となり、頭痛や吐き気、目の痛み、歯茎からの出血等があったため急ぎ延縄をしまい、全速力で母港の焼津港に戻り着いたのが2週間後の3月14日。
3月16日、読売新聞が最初にこの事件を報道したそうです。(上の写真右端の新聞がそれ)
真近で見る第五福竜丸は大きく見えますが、広い海に浮かべたら、こんな小さな船で・・・しかも木造船・・・と今の時代なら思うところでしょう。
3月 第五福竜丸は文部省が買い上げ、8月には東京に回航され、10月には東京水産大学に繋留し、残存放射能の検査などが行われたということです。
被ばくから2年後の1956年3月には東京水産大学の練習船「はやぶさ丸」と改名。
改名してから11年後の1967年3月には廃船処分となり解体業者に払い下げられて、エンジンなどは売りに出され船体は夢の島に廃棄されたそう。
1970年には名前を第五福竜丸に戻し、1972年、夢の島公園予定地に陸上固定されたあと、1976年(昭51)6月、展示館完成とともにここに保存されることとなりました。
エンジンを買い取った奥地さんという方は、自己所有の船にそのエンジンを取り付けて使用していましたが1年3ヶ月後の1968年7月に熊野灘沖で座礁・沈没し海中に残されたままとなりました。
座礁・沈没から28年後の1996年12月(被爆から42年後)に海中から引き上げられて、東京都に寄贈され、エンジンだけは展示館の外の庭に屋根付きで展示されています。
外から見た展示館
数奇な運命をたどった第五福竜丸のエンジン。
(外のエンジンを見たのは中の展示をすっかり見たあとのことです。)
展示館内では第五福竜丸の展示とともに 「福竜丸とゴジラ展」 も開催されていました。
梱包用プチプチビニールで作られたゴジラの着ぐるみ(手前)と黄色い絵は・・?? と思ったのですが、後で写真を見るとゴジラが浮いて見え出展された意味が分かった次第・・・。
船べりにはこんな小さなゴジラがたくさん並んでいます。
ゴジラの腕 という作品
広島の原爆ドーム、焼ける前の姿、焼けた後の姿の作品もありました。
入館した時には気がつかなかったのですが、一回りして出口に近づくと、きのこ雲を描いた大きな絵もありました。
千羽鶴もたくさん・・・
原爆は本当にご免蒙りたいですね。
ゆっくり見ていたので思いのほか時間がかかりました。
このあと、熱帯植物園にまわりましたが、そのことは次回に致します。