2022.5.12(木)
厳島神社の次は岩国の錦帯橋に向かいました。
錦帯橋に近づくとバスの中から遠くの高い山の上のお城が見えました。
岩国城のようです。今にも雨が降ってきそうな空。
河原がバスパークになっていました。で、バスを降りるとすぐに錦帯橋が見えます。
錦帯橋の原型となるものが架けられたのは延宝元年(1673)これは洪水によりすぐに流出。
延宝2年(1674)改良を加え再建されました。
以来276年間橋の流出はなかったが、昭和25年(1950.9.13)の台風により流出。昭和27年(1952.12.26)再建終了。昭和28年1/15日渡り初めを済ませた。
現在の橋は、その再建から50年後の平成13年(2001)から架け替え工事を始め、平成17年(2004)に架け替えを終えたもの。
橋を渡る前に昼食タイム
橋のたもとにあるお食事処で名物の押し寿司を頂きます。
この大きな押し寿司(これで50人分だったかな)を一人分づつに切り分けるそう。
一人分は写真下のレンコンの乗っているサイズ。
昼食後いよいよ錦帯橋を渡ります。雨が落ちてきてしまいました。
錦帯橋往復通行券:大名行列の通るお祭りもあるのでしょうか?
両端のゆるやかな太鼓橋には階段はありませんが真ん中の勾配の急な太鼓橋三つは低~い階段になっています。
雨が降ってきましたが、階段のおかげですべってころぶという怖い思いはせずに済みました。
時間がないのでそうあちこちを見て歩くことはできません。橋の向こう側の解説板のあるところやその先に進んだところをちょっと覗いて帰ってくる感じです。
橋を渡り終えるころ、たもとに見えたりっぱな松。
槍倒し(やりこかし)松。
諸国の大名が他藩の城下を通過するときは槍を倒すのが礼儀だったが、大藩が小藩の岩国城下を通る際、槍を立てたまま通ったため、いやでも槍を倒さざるを得ないような横枝の張った大きな松を橋の頭に植え、他藩の大名が槍を倒して通るのを見て溜飲を下げたという謂れのあるもの。
初代の松は昭和27年(1952)松くい虫によって枯れてしまい、今あるものは2代目とのこと(初代の松の実から育てた)。
近くにあるヤナギと解説
槍こかし松側から見た錦帯橋。
まだ時間があるのでその先にまっすぐ進みました。
つきあたりに吉川広嘉公像(写真はない)。その前にあったこの説明、字が見えにくくなっていますが、錦帯橋をかけるきっかけが書いてありました。
それによると、錦帯橋は延宝元年(1673)当時の藩主吉川広嘉永公が中国の僧(医師でもあった)の”西湖誌”にあった橋にヒントを得て5連のアーチの橋を架けたと伝えられているとあります。
その右手、少し先に見えたりっぱな長屋門は山口県指定文化財となっている香川家長屋門。
その先は広々した公園になっていました。吉香公園だそう。
見るべきものはたくさんあるようですし、ロープウエイに乗れば、岩国城のある高いところにも行けるようですが時間が足りません。
公園手前を右に曲がり、宇野千代さんの顕彰碑を見たところで引き返すことにしました。
もと来た道を引き返し、錦帯橋も渡り返します。
錦帯橋の裏側ものぞきましたが、どなたがこのような木組みを考えられたのか・・・
参考になるものはあったかもしれませんが、日本人の知恵と技、ただただ感服です。
(この回の橋の架け替えで初めて金属の釘が使われたそうです。)
ここでもガイドさんに記念の写真を撮って頂きました。
次に向かうのは日本海側に出る途中にある瑠璃光寺。
瑠璃光寺
瑠璃光寺は毛利家の墓所の一つだそう。曹洞宗の寺院で国宝となっている檜皮葺の五重塔は日本でも1つ?2つ?しかないとのこと。そのしっとりした姿・形はため息の出るすばらしさです。(1442年ころ完成)
池の周りにもあった黄ショウブも景観を引き立てています。(朝の情報番組でキショウブは外来種なのであまりはびこらせてはいけないと・・)
彩(いろどり)豊かな周りの新緑も目にやさしくほんとにすてきです。
本堂内部。ご本尊は薬師如来だそう。
帰り道、うぐいす張りの石畳?の説明を見てそちらにも行ってみました。
写真にはとりませんでしたが、本当に手を叩いても足踏みをしても音が返ってくるのです。
面白がってみんなで試してしまいました。
さて、次は秋吉台です。
ここは私も昔来たことのあるところ。若い頃訪れたときは秋芳洞の中にも入った記憶がありますが、今回は展望台から景色を眺めるだけです。
雨はやんでいましたが、空ははっきりしません。
今日の観光はここでおしまい。今晩の宿のある長門湯温泉に向かいます。
夕食にはフグやアワビの踊り焼きが付きました。
今日も食後しばらく休憩してから温泉に入りぐっすり寝んだのでした。