下の一文は21日の「実弟」さんのコメントの後半部分です。
1929年3月1日、上小農民組合連合会は第2回総会にタカクラ・テルの義兄弟にあたる山本宣治を招き記念講演をしていただきました。この講演の4日後の3月5日、山本宣治は治安維持法改悪承認の議会にただ1人反対演説をすべく上京しましたが、その夜右翼により暗殺されました。上小農民組合連合会は山本宣治の死を悼み、抗議の記念碑をタカクラ・テルの借家の庭に建立しました。1933年2月、治安維持法による県下最大の弾圧事件であった「2・4事件」でタカクラ・テルは逮捕、家族は県外追放となりました。警察は家主の齋藤房雄に碑の取り壊しを命じてきましたが、密かに自宅(旅館柏屋別荘、現臨泉楼 柏屋別荘)の庭に埋め38年間守り通しました。
1971年10月、碑は多くの協力者を得てこの地に再建されました。
この「碑」が建てられたのが、国宝三重塔のある安楽寺の境内でした。
安楽寺についてはワイコマさんのブログ(http://blog.goo.ne.jp/ykoma1949/e/ce63d396eb6a66037e4d82a8f93ac548)
に紹介されています。1929年(昭4)3月5日、山宣殺された!の知らせが上田にも伝わり記念碑の建立が
決められました。建立場所としてタカクラ・テルの借家の庭(常楽寺参道に面して)に、碑文には山宣の訳し
た「戦争と生物学」の扉の「好むにせよ好まないにせよ、やがては来るその日の為に」と決めていましたが、
許可されず半年に及ぶ交渉の結果、「生命は短く科学はながい」をラテン語で刻むことになりました。ラテ
ン語では一般には誰も読めません。
このようにして立てられた記念碑でしたが、1933年2月タカクラ・テル氏が検挙されると家族は別所村
から「県外」への転出を命じられ、追放されました。上田署は空家になった庭の「山宣の碑」を破壊せよと、
家主の斎藤房雄さに命じたのです。
斎藤さんは「守らねば」と決意し深夜自分の経営する旅館(柏屋別荘)の庭に運び碑面を下に伏せて埋
め、警察には「破壊した」と届けました。1933(昭8)年10月のことです。
そして、38年後の1946年の暮、斎藤氏は「実はあのときの碑は、お預かりして置きましたのでお返しし
ます」とタカクラ・テル氏に述べたのです。
その後のことなど「実弟さん」が語っていただければ有難いです。