昨日は俳句の集まりがありました。突然の用事で参加できなかったので五句投句しておきましたら、先生から三句戻されてしまいました。
実は川柳の題が「芽」でしたから芽を詠んで二句、芽に近い「蕾」で一句、それが再検討をというわけです。蕾は季語ではありません、というのと芽は「木々芽」とか「ものの芽」と詠むべきとの指摘で、歳時記にあたってみましたら言われる通りでした。
この点川柳はなんの制約も無い、この自由さは貴重だと思いましたが少しは勉強しなければと買って来たのがこの本、
三省堂発行『新現代川柳必携』というのです。
川柳では芽は?
今日寄せられた川柳では、芽を植物の芽として詠むのと人に即して詠むことについて話されていました。私も「メが出ない奮闘努力の甲斐の果て」と口にしてみて、このメはサイコロの目だろうと思ったのです。
サイコロの目も人間の目とは違う、もし川柳の題として「目」が出たらどう詠まれるのだろうと、その頁を見ますと、
石神先生の「目」がありました。
この本では編集で「身体」というジャンルの中のテーマとして「目」がまとめられているから「サイコロの目」が入る余地はありません。
もし「目」だけの題でしたら、
目が出ない何時か何時かで八十歳
などという川柳も詠めるわけです。
今日の教室でも川柳と俳句の違いが話されました、この本にも
というように読むべきこと、学ぶべきことが簡潔に述べられていて、必携とする価値ありです、石神先生の句もあと◯句ありました。
この記事を見ながら「蛙の頬かぶり」ということわざを思い出しました。我が身のことですが解説すると「蛙が頬かぶりをすると目が隠れて前が見えなくなるということから、目先のきかないことをいうのです。小学館の『ことわざ大辞典』では例として歌舞伎のセリフから、
【まだ耄碌する程の年でもないが、熊蔵さん、お前は蛙の頬冠りで向こうの見えない人だねえ】
アベ蛙はこの文書を頬かぶりにしてきて、目が見えず遂に来るべき土壇場に立ってしまった。
ツイッターに入っていましたので、急きょ国会前へ出かけました。南側とありましたが今まで集まっている所かと行ってみましたがいません。その反対側で、
ここが先頭、アイパッドでビデオしましたがアップできませんので、
明日赤旗で、あらためて紹介します。
昨日の続きです、偶然ネットに入ってきたのは、昨日の新聞記事に加えてこの人の一文です。
内海信彦さん、ここに語られている「叔母」という方が堀文子さんだと思います。さてこれも偶然ですが今日の「しんぶん赤旗」に、
なぜ昨日かというと、kaeru夫人にお供して行って来ました。
こうして印刷物を見ると、絵はやはり直に観るべきもの、と思います。ただ絵画について語り得る何ものも持っていませんので行って来た話は終えて、今日のこと、
偶然だと思うのですが、ネットに入って来ました。3年前の「毎日新聞」です、読んで下さい。
この記事の(上)が一週間前のようですが、ネット上では見当たりません、葉山図書館の新聞保管は一年、縮刷版は「朝日新聞」だけだそうで、逗子図書館か鎌倉へ行けばあるか?
なおネットには堀さんの甥の方の一文が付いています。明日紹介したいと思います。