本当に信じられないけれど、もう12月。
慌てて区の健康診断とがん検診を申し込んで12月1日に新宿のクリニックまで。
ほんとうは半年に1回チェックしなくてはいけない無呼吸症候群も1年たってしまったけれど、呼吸器内科も歯科も
申し込んで今月の予定。他に膝で整形外科も入り、12月は病院デーとなってしまいました。
高齢者になって若い頃とはメンタルでもフィジカルな面でも全く違ってくるけれど
それを十分理解したうえでも、この思いの落としどころはどこなのだろうと思ってしまうこの頃。
死ぬまでの何年かをどう過ごすかと思っても、未来は何が起こるかわからない。メンタルな面でも
フィジカルな面でも。思秋期という言葉があったのですが、白秋期という言葉もあったのですね。
白秋期 地図のない明日への旅立ち 五木寛之
なんとタイトルのジャスト・フィット感に納得。
若い頃、日野原重明さんの本はよく読みました。そういえば「人生の四季・・」とかいう本を持っていたと
思い出して探したらありました。それも2冊も。両親の所から持ってきた本の中にも同じ本があったのでした。
本の中には1989年の日仏会館でのフランス革命200年記念のラパン・アジルでのシャンソンライブのちらしが
はさんでありました。ちょうど結婚したころ。主人は日仏にも通っていたのだったっけ。もう1冊あった日野原さんの
本は母のもの。若いころから日野原さんは婦人之友社を通じてよく知っていました。
人生の四季を生きる 日野原重明 岩波書店
他に遠藤周作の「恋することと愛すること」があって、これは多分父の本棚にあったものです。父は遠藤周作が好きで
数冊持っていました。私は恋愛小説とか映画はあまり好きでなくて、あからさまに作り話のTVドラマなどは
楽しんだこともありますが、恋愛なんて信じていない。それこそillusionだと思っています。若い頃、人を好きに
なったことは何回もありますがほとんど片思いだし。もっと深いところの愛で結びつきたいとずっと思っていました。
この遠藤周作の本も面白そう。父は母に残した遺言書に結婚とは何だったのだろうと書いて母を悩ませたと思います。
本当になんてこと書くのでしょう。
愛については学生時代に読んだC. S. Lewis Four Loves はとても納得して、今でもこの考えが基本になっています。
Friendshipというお互いを見つめるのではなく同じ方向を見て進む愛を大切に思ってきました。Charityは一つ上の
アガペーという神の愛です。そこにはなかなか近づけません。
C.S. Lewis’s famous work on the nature of love divides love into four categories: Affection, Friendship, Eros and Charity.
The first three are loves which come naturally to the human race.
今日は整形外科の日だったのですが、夕食も全部作って、出かけようと思ったら雨。
今杖を突いて傘をさすのは危ないのでキャンセルして、予約を別の日に取り直しました。
それで、日野原さんの人生の四季を昨日はパラパラと見直していたのですが、全部読みなおしました。
若い頃ほとんど印象が残らなかったこの本も、今読むとすごくよくわかります。
私は本に線をひいたり、付箋を貼ったりするタイプですが、「人生の四季に生きる」では
1か所しかマークしていませんでした。
脳を上手に使うコツは、不愉快なことや心配なことに脳を使うことをできるだけ避けて、
積極的に生きるために脳を十分に使うことです。
今読み返すと全くリアルタイムなのでよくわかります。
ウィリアム・ジェームス教授は、定年後に来る第4の人生を、自由人としての自我の誕生だと言っている。
・・・ 壮年時代に負わされたいろいろの拘束や責任や義務から解放されて、1個の人間として自在に
生活できる状態になっているのです。
自然の四季では、冬の終わりの深い雪の下にも青草がすでに芽生えています。
・・・ 雪の下にもし青草があるとすれば、それは、私たちめいめいが残す精神的遺産が次の時代に
次の季節に育つ人々に発掘されて、その時代の人々の心の中にそれが生かされるということであります。
そのようなことによって、私たちの人生は永遠に連なる可能性が生じると私は考えたいのです。
「人間が人生の最後、死に直面して一番身につけていなければならないのは、平静の心である」
アントニヌス・ピウス
I am a part of all that I met. テニスン
・・・そこで私たちは人間の成長は一人ではかなえられないということに気づくのです。人は他の人間に
出会うことで成長する。私たちが出会う人間は、優れた先人とか学者とかのように、成功した人ばかりでは
必ずしもなく、むしろ悲劇の人であったり、破産をした人であったり、失職した人であったり、陽の目をみない
作家であったり、病気で再起不能になった人で会ったりする場合が多いのです。そのような人々との出会いを
通して、私たちは実に多くのことを学びます。
この定年後の時期は、単に引退するのではなく、むしろ創造的引退(creative retirement)と表現される
生き方を目指せば、明るい人生が展開してくるように思います。
フランスの心理学者ジャネの法則
人は年齢によって時間の経過する早さが違ってくる
同じ10年でも、その当人にとってはその長さが年代に反比例して感じられ、10歳代の時の10年比べて
50歳代の10年は、五分の一、すなわち2年でしかないということになります。
「老人性痴呆は患者から心を奪い、家族の心を破る」J.ストーン博士
老人はまた、自分がたとえ小さい存在であると感じても、自分の中にはなにかまだ使いうるもの、開発
すべき脳があり、使える手足があることを考えて、心とからだを最後まで使い続けることが望まれます。
・・・そのようなしなやかさを持ちつつ、一方、人の苦しみが共感できる老人として生きることができれば
それは最高の生きざまではないかと思います。老人には再び春は来ない。しかし、雪どけの春を待つ
しなやかな心、病みつつも春を待つ心を最後の姿として画きたいと願うのです。
老いに生きることをもう少し前向きに考えると、それは、老いもまた与えられた恵みの時という受け止め方
になるでしょう。
・・・人には齢をとってからも新しい生き方のあることが、多くの先輩による実例として示されています。
私はおいても心健やかに生きたマルチン・ブーバーの言葉をいつも心に抱いています。20世紀の生んだ最高の
哲学者ブーバーは75歳になった時、その著書「かくれた神」にこう書いています。
「年をとっていることは、はじめるということの意味を忘れていなければ、すばらしいことである。」
私たちに、いよいよこの世を去らなければならない日が来たとき、タゴールが「人生の終焉」の詩に歌った
ように「私の頭陀袋(ふくろ)は空っぽだ。ー与えるべきすべてを与えつくした」といえるでしょうか。
もしそうでなければ、ローマの詩人、ユヴェナリスがうたったように「人生の最後を自然の賜物として
受け取る心」が私たちに与えられて、私たちは静かに死の川を心静かに渡ることができましょう。私たちは
哲学者マルチン・ブーバーにならって創めることを忘れない老人となって行きたい、そしてどんなに激しい
波風の中にも平静に生き、そして、人生の最後を自然の賜物としてしずかにうけとれるよう、生涯を通して
学び続けたいと思います。
この本は日野原さんがNHKの依頼で5話にわたって話した内容を本にしたものです。
学生時代にブーバーの「我と汝」を読んだことがありました。どんなだったかまた見てみようかな・・
あの頃は立教大の加藤先生と出会い、デカルトとかパスカルとか読んでいた時代でした。
加藤先生との「万葉集」の読書会も忘れ難いものです。
※日野原さんの本は2冊持っているので、もし読みたい方があれば差し上げますので連絡ください。
はい、欲しいです、手を挙げます。「創造的引退」とう言葉はいいですね。私はまだ引退できませんが(笑)この年齢になってようやくいろんなことの意味が若い頃よりわかるような気がしています。勘違いかもしれませんが。
いつも見ていただいてありがとう。
ラインで住所をお知らせくだされば郵送します。切手はたくさん持っているので。
この本は一般的な定年退職をした人が主な対象となっていますが、クリエーターは生涯現役の人が多いですよね。紫苑さんもそうだと思います。
定年は引退でなく、展開だと考えて前を向いて生涯何かを追求していければいいですよね。
若いころはぴんと来なかったことも今はわかりまくりです。
ありがとうございます。ではラインで(嬉)引退ではなく展開、というのはいいですね。目の前の年月が広がっていく気持ちがします。言葉というのは、こんな風に人の思いや気持ちを変えてくれる、転換してくれますね。言葉の使いかた一つで毎日が変わる、素晴らしいです。
古い本ですが、参考になると思います。
いつもならマンションのリサイクル図書に出すのですが、知っている方にあげられたらうれしいです。、