図書館から借りてきた全集の1冊、深緑のハードカバーの本を開いて読み始めようとすると、最初の「森有正氏に」という献辞に心がビビッと来てしまいました。森有正の本は学生時代によく読みました。そのころ影響を受けたのは他に神谷美恵子の本でした。
岩波書店から出ている辻邦生歴史小説集成の第1巻に入っている「安土往還記」と「『安土往還記』歴史紀行自作-解題風に-」をやっと読み終わりました。おとといはレオン・フライシャーのピアノやハウザーのチェロを聴きながら読んでいました。学生時代の癖が出ました。
ドビュッシーの「月の光」は遥かかなたの私の人生の始まりの頃を思い起こさせました。少女の頃、父が買ってくれた出版社が出した音楽の贈り物。ハウザーの弾くチェロのラフマニノフもピアノと違った感じでいいですね。カヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲の遠くからさす光のような美しい心にしみるメロディ。辻邦生の描く桃山絵巻を読みながら音楽にも引き込まれていく私。
読み終わった後、すぐプロダクションノートのような歴史紀行を読んだので、彼の意図するところもよくわかって面白かった。小説を読み始めると、文学の楽しさを久しぶりに感じました。文字で絵画的な表現をして、読む者は文字を通して創造力を働かせる。辻邦生もその時代を想像して表現することを楽しんでいるように感じました。辻邦生が表現したいことを表すのに文学が一番適したスタイルだったのですね。 町のざわめきを感じ、押し寄せる波のような戦闘シーンや非情な世界、家臣たちと信長の距離感・・・ それが外国人を通して語らせるのが、まるで現代人が見たような客観性があり、辻邦生らしいと思いました。湖東に旅をして、ルイス・フロイスの見た日本もおもしろそうだと思ったり、「麒麟が来る」で明智光秀と信長やほかの家臣たちのかかわりがわかっていたので本を読む助けになりました。
辻邦生が信長のことをジェノヴァの航海士の私信で語り、信長のことを大殿(シニョーレ)と呼び、今までの信長像にとらわれない一人の人物として描いた、この第三者的な目が面白かったです。
この小説で繰り返し、出てくる言葉「事が成る」ということ。・・ すべてから粉飾をはぎ取ったぎりぎり必要なもののみが力となるという真実・・・
自分の選んだ仕事に置いて完璧さの極限に達しようとする意志(ヴィジョン)
「虚空の中をただ疾駆しつつ発光する流星のようにひたすら虚無を突き抜けようとするこの素晴らしい意志のみを人間の価値と呼びたい」というのはまさに辻邦生の信長を通して言いたいことなのだと思います。
信長の人生50年の歌のように彼はすでにこの世界の虚無に直面し、夢まぼろしの世界をいかに生きるかに心してしていたと言えまいかと彼の心に寄り添った。信長とヨーロッパから来た伝道者たちとの間に覚える共感、明智や秀吉という対照的な二人の中に最後の友情を感じていたというのも昨年のTVドラマと同じ意見のように思える。
この小説の中の凄惨なシーンのあとにくるヴァリアーノとの別れは美しい絵巻物を見ているようでした。ヴァリアーノの言葉を借りて、「全身を持ってその精神的な高みへ登りうる唯一の手段は音楽である」と語った。音楽だけはどこにあっても直ちに濃密な精神の圏を作り出すことができると。
安土往還記歴史紀行の中で辻邦生はフィクションについて語っていました。
劇場に行く人は、舞台の上の人工的な現実(幻影)を見るが、しかし目的はそれを通して現れる人間的真実に接し、悲哀なり、愛なり、勇気づけなりの感動を味わうことができると。
あくまでも小説 -フィクション
信長と呼ばすに尾張のシニョーレと呼ぶことによって、先入観を持たせず、歴史上の人物として存在するのではなく、次第に読者の想像の中に姿を浮かび上がらせた。初めにロゴスがあった。
安土往還記の中でやりたかったことは、言語の力で世界を無の中に浮島のように構築することだった。西洋人から見た日本とパラレルに信長公記合わせて新しい世界を作り上げて行った。
最後に光秀との信長の心理的対立が人間的なものめぐる見解の相違をモチーフ設定としたというのも最近の二人の解釈に合ししているように思えました。
森有正にささげた本ですが、途中森有正と見解の相違があったこともここに書かれていました。
歴史物はフィクションとはいえ、その時代のすべてを相当勉強しないと書けないものです。大変な仕事をしています。ここにあった航海士の手記が実際に残っているものと思って問い合わせが来たと書いてあったのが面白かった。
写真は今日の朝富士、夕富士、咲き始めたもう一つのイングリッシュ・ローズ
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