今日は9時から班長教室だったんだけれど・・・・・寝坊したって事で、午後からとなり・・・それなら支度を済ませて金魚屋さんに・・・・。
ほんの1時間でも休めるのはほっとするのね・・・・さてそれでは戻って・・・みどりにカルビの親子教室。
ではカルビから。とうとう新作が始まったのね。昨日の下ごしらえを見せると、赤と青を何とかならないか?って事で塗り直しをしつつ、途中までバックは組み立てて・・・・・班長が来るまでの間はバック作りをして、来てからは初めての本格的な1cmタイルでの作品作りがスタートとなった。
まっ結果としては、もっと四苦八苦になるかな?・・・・と思いつつ、これが意外や意外で、別に何とも無いって・・・・おぉこりゃ楽しみなのね。
そんな中、みどりは・・・・遊びの作品作り。

まっこれは特に口出し無用って感じなんだけれど、そんな中、新作のラフ画を持って来た。

どうやら教会の扉を花嫁さんが中から外へ向かって開ける・・・そんな絵で、やりたい事は十分伝わった。ただここからは理想と現実の折り合いを付ける話となる。確かにこれを2mで作るのなら、このままのデザインでやれば良いと思うが、いくら大作とは言え2mは無いわな。
つまりいくら大きくても1mが限界とすると、一体この女の人はどの位の大きさになるのか?って事になる。ほら昨日に引き続きの話・・・。
そしてもう1つは本当にこの下絵のままなのか?それとも趣旨さえ踏まえれば変更もありなのか?・・・・。
例えばかぐやの作品。同じ教会だが、下から上へのアングルでより天井を高く見せているのね。それによって写真で撮ったような画像では無くて、ある意味想像図的で、より効果的にどれがメインって訳でも無く、全て特徴を捉えている・・・そんな絵。
するとみどりは教会のドアは背が高く、それは入れたい・・・って言うのね。って事はキウイの女の人よりも大木の方が大きくなるあんな感じ。
もし趣旨が単に扉の向こうに幸せがある・・・希望は明日にある・・・・・って事なら、別にまるで写真のようには作らなくても良くなる。
けれどもし、絶対に高い天井って事なら、かぐやのような工夫したアングルって事も出来る。いずれにせよ、大きい作品に慣れてしまうと、勉強の1つは大きさが定められている中での、最善とは?であり、いかに折り合いを付けるか?になる。
そんな中、かぐやの仕上がった作品を見つつ、予定していた油を塗られた自分の作品を見比べて・・・・やっぱり金が良いって言い出す・・・。
ばかちぃぃぃぃんがっ。また色で決めた・・・・。みどりの中では金も木に油を塗ったものでも、そんなに変わらない色と判断しているようだ・・。
あのね、油を塗るって言うのは、ナチュラルテイストなのね・・・自然風味。素材の良さを生かしてって感じ。では金ってどんな感じ?
それはお金持ちだったり、豪華だったり・・・ほら相反する考え方になるよね・・?それでは全く趣旨が変わって来る・・・・。
そんな大事な事がたった数週間で心変わりされてもね・・・・一見、カルビの塗りなおしも一緒じゃん・・・って感じにも思えるが、それは大きな間違えで、みどりは自分で決めて変更しようとしている。しかしカルビは何も決めて無くて、俺の提案したものを受け入れて、その上でこの色だけを
変えて・・・って言う話。大人な分、経験者の分、そして弟子になる分、カルビとは背負う分量が変わって当然であって、結果的には直すにしても、何に自分がつまづいてこうなったか?って事が判らないと、また同じ失敗をする。では一体どうしてこうなったか?
それはまず、すぐに自分の中で終わりを決めてしまう事。例えば不死鳥が張り終わったら、後はバック・・・・とか、後はこれで・・・とすぐに今ままでやった事が良かったら、そこに満足をし、後は・・・と簡単に物事を決めてしまう。
今度は目地をしていないのに全て張り終わったら、終わった・・・弟子になれる・・・と、決め付けて日高氏の評価はいつになるのか・・・・と、心待ちどころか、逆に苛立ちのような、そうかと思えば卑屈にもなるような、急激な心の変化を見せる。
ただ良く考えれば、まだ目地も額も出来てなくて、その時点ではまだほぼ完成ってだけ。つまりすでに油断だらけって事になる。更に目地になると、今度は暗黒と言う言葉をキーワードとして、経験値の無さを考慮はしても、決断とか勇気とかの無さって言うのと、自分の作品の重さって意味を、
少し判って来た分、今度はびひった・・・。そう言う事の繰り返しで今度は額・・・これは直すべき自分なのね。つまりかぐやのを見て後出しじゃんけんをしたって事・・・・弟子になれば条件は一緒だとしたら、かぐやのように自分が後出しじゃんけんをさせる先人であるべき。
上手くなるって言うのは、そう言う事も込みであると思われる。技術って言うのと、心って言うのは、全く別分野であり、技術が向上しても、それに見合った成長が無いと、作品は技術だけで作るものではない。勿論、それはオリジナル作品の話であって、商業ベースのモザイクのようなものには、
必要の無い話だけれど・・・・いずれにせよ、後出しじゃんけんでは無く、責任を持って自分発信で向き合う事に徹する癖を付けるべきで、みどりに欠けている部分はそこにあると思う。それでは遅れて来た班長。

ここは完全なる趣味とした人なんで、モザイクが上手くなるうんぬんよりも、創作活動に欠かせない洞察力、観察力、想像力の話だけでも十分な人なんだけれど、ここが大事なのね。さっきのみどりはプロとしてモザイクで仕事がしたい人になる。班長は完全なる趣味。
この大きな違いで考えたら、いくら向上しても終わりが無いプロと、趣味ならこれが完成したら十分じゃないの?って感じで、もはや趣味には見えない・・・とでは全く意味が違う話なのね。更に言えば、班長1人の問題に切り替えたとしても、いかに上手くなったか?を話すのに、こんなのはどう?
以前は仕事に生かしたい・・・・としてここに来ていた。今は完全なる趣味。では折角相席なんだから、弟子のみどりに表現して貰おうかね・・・。
ねぇ、この作品完成したらどんな感じ?・・・・凄いと思います・・・・って。そうなんだぁ・・・・凄いのね・・・なるほど。
だってさ・・・・って班長に言うと、アトリエ内にはかぐやとみどりの作品があって、そんな中なんで恐縮ありきなのかも知れないが、そうですかねぇ・・・・って本人は全くそんな気が無い。けれど、もう一回確認をして貰う為に、でもみどりってその不死鳥作った人だよ・・・って言うと、
凄いですよね・・・・って。ここ。つまり不死鳥は凄くて、みどりはそれより見劣りするから説得力が乏しくなる。これが作品に見合った自分になると、かぐやのようにkameyaさんでのエピソードで、先生に褒められるよりも嬉しい・・・・なんて事になる。
つまり何がどう凄いのか?って説明不足だと思うのね。そこで少なくとも不死鳥作った人が凄いって判断したんだよ・・・って念を押すと、そうなのかなぁ・・・・ってやや自覚しようかな?くらいにはなって来る。ただね、大事なのは仕事に生かそうって時は自宅でもやっていたのね。
けれど今は完全なる趣味でアトリエのみ。じゃこれが完成したら見比べると良いのね・・・・どっちが上手い作品に見えるか?自宅でもやって仕事に生かそうって言うのと、完全なる趣味・・・・比べるまでも無く以前の方がやる気があったように感じるでしょ?
でもね、そうじゃないのね。今の方が完全に上手く見える作品になる。何故か?そこに秘密があって、昔は言葉にすると仕事、やる気みたいなものがあるように聞こえるが、実は今よりも信頼感に欠けていたと思うのね。けれどモザイクの時間は多かったって話。
では今は?となると、モザイクをやらなくてもここに来る・・・って言っているくらいだから、あの時よりも信頼感が違う。ただモザイクの時間は短い・・・・なのに。要するに技術って言うのはこんなもんなのね。辞めないで続ければある程度身に付くものなのね。
そうなると大事になるのは、それを生かす目だったり、先を読む想像力だったり・・・ほら、今の班長はそれを習いに来ているようなもの・・・。
だもの、腕と目のバランスが良くなったって事なのね。つまりバランスが良いから困る事が少ないって話。
ではみどりは?・・・・モザイクの技術が向上した分、それに見合った目で無いって事になる。とてもバランスが悪くなっているって事なのね。
いかにその技術に見合った自分が作れるか?になる。ただねぇ・・・腕が上がったってのは厄介な話でね・・・上手くなると、少しのアドバイスで、
まるで自分が是正した気になる。それが親子の関係なら、判ってるよっ・・・・ってあのセリフ。本来判っている奴はやらないものであって、判らないから言われているし、今やろうとしていた・・・・って言われるのは、教える側の我慢の無さか、教わる方のモタモタ感なのか?判らないが、
いずれにせよ、今のみどりはそんな感じにはなって来た。そうね・・・ある意味、カルビと班長にはさまれた相席・・・みどりには良い勉強になるのだけれど・・・・その意味が判るかなぁ・・・・みどりに・・・。
ヒントは弟子の自覚があったか?・・・・3人の中で一番上手い人である・・・・って言うね・・・・もし2人と同じスタンスだったとしたら、一番下だった事になる・・・・自覚って技術だけじゃないって事なのね。ペンキの色なんて上っ面な事では無くて、本質を盗んで欲しいものである。
ほんの1時間でも休めるのはほっとするのね・・・・さてそれでは戻って・・・みどりにカルビの親子教室。
ではカルビから。とうとう新作が始まったのね。昨日の下ごしらえを見せると、赤と青を何とかならないか?って事で塗り直しをしつつ、途中までバックは組み立てて・・・・・班長が来るまでの間はバック作りをして、来てからは初めての本格的な1cmタイルでの作品作りがスタートとなった。
まっ結果としては、もっと四苦八苦になるかな?・・・・と思いつつ、これが意外や意外で、別に何とも無いって・・・・おぉこりゃ楽しみなのね。
そんな中、みどりは・・・・遊びの作品作り。

まっこれは特に口出し無用って感じなんだけれど、そんな中、新作のラフ画を持って来た。

どうやら教会の扉を花嫁さんが中から外へ向かって開ける・・・そんな絵で、やりたい事は十分伝わった。ただここからは理想と現実の折り合いを付ける話となる。確かにこれを2mで作るのなら、このままのデザインでやれば良いと思うが、いくら大作とは言え2mは無いわな。
つまりいくら大きくても1mが限界とすると、一体この女の人はどの位の大きさになるのか?って事になる。ほら昨日に引き続きの話・・・。
そしてもう1つは本当にこの下絵のままなのか?それとも趣旨さえ踏まえれば変更もありなのか?・・・・。
例えばかぐやの作品。同じ教会だが、下から上へのアングルでより天井を高く見せているのね。それによって写真で撮ったような画像では無くて、ある意味想像図的で、より効果的にどれがメインって訳でも無く、全て特徴を捉えている・・・そんな絵。
するとみどりは教会のドアは背が高く、それは入れたい・・・って言うのね。って事はキウイの女の人よりも大木の方が大きくなるあんな感じ。
もし趣旨が単に扉の向こうに幸せがある・・・希望は明日にある・・・・・って事なら、別にまるで写真のようには作らなくても良くなる。
けれどもし、絶対に高い天井って事なら、かぐやのような工夫したアングルって事も出来る。いずれにせよ、大きい作品に慣れてしまうと、勉強の1つは大きさが定められている中での、最善とは?であり、いかに折り合いを付けるか?になる。
そんな中、かぐやの仕上がった作品を見つつ、予定していた油を塗られた自分の作品を見比べて・・・・やっぱり金が良いって言い出す・・・。
ばかちぃぃぃぃんがっ。また色で決めた・・・・。みどりの中では金も木に油を塗ったものでも、そんなに変わらない色と判断しているようだ・・。
あのね、油を塗るって言うのは、ナチュラルテイストなのね・・・自然風味。素材の良さを生かしてって感じ。では金ってどんな感じ?
それはお金持ちだったり、豪華だったり・・・ほら相反する考え方になるよね・・?それでは全く趣旨が変わって来る・・・・。
そんな大事な事がたった数週間で心変わりされてもね・・・・一見、カルビの塗りなおしも一緒じゃん・・・って感じにも思えるが、それは大きな間違えで、みどりは自分で決めて変更しようとしている。しかしカルビは何も決めて無くて、俺の提案したものを受け入れて、その上でこの色だけを
変えて・・・って言う話。大人な分、経験者の分、そして弟子になる分、カルビとは背負う分量が変わって当然であって、結果的には直すにしても、何に自分がつまづいてこうなったか?って事が判らないと、また同じ失敗をする。では一体どうしてこうなったか?
それはまず、すぐに自分の中で終わりを決めてしまう事。例えば不死鳥が張り終わったら、後はバック・・・・とか、後はこれで・・・とすぐに今ままでやった事が良かったら、そこに満足をし、後は・・・と簡単に物事を決めてしまう。
今度は目地をしていないのに全て張り終わったら、終わった・・・弟子になれる・・・と、決め付けて日高氏の評価はいつになるのか・・・・と、心待ちどころか、逆に苛立ちのような、そうかと思えば卑屈にもなるような、急激な心の変化を見せる。
ただ良く考えれば、まだ目地も額も出来てなくて、その時点ではまだほぼ完成ってだけ。つまりすでに油断だらけって事になる。更に目地になると、今度は暗黒と言う言葉をキーワードとして、経験値の無さを考慮はしても、決断とか勇気とかの無さって言うのと、自分の作品の重さって意味を、
少し判って来た分、今度はびひった・・・。そう言う事の繰り返しで今度は額・・・これは直すべき自分なのね。つまりかぐやのを見て後出しじゃんけんをしたって事・・・・弟子になれば条件は一緒だとしたら、かぐやのように自分が後出しじゃんけんをさせる先人であるべき。
上手くなるって言うのは、そう言う事も込みであると思われる。技術って言うのと、心って言うのは、全く別分野であり、技術が向上しても、それに見合った成長が無いと、作品は技術だけで作るものではない。勿論、それはオリジナル作品の話であって、商業ベースのモザイクのようなものには、
必要の無い話だけれど・・・・いずれにせよ、後出しじゃんけんでは無く、責任を持って自分発信で向き合う事に徹する癖を付けるべきで、みどりに欠けている部分はそこにあると思う。それでは遅れて来た班長。

ここは完全なる趣味とした人なんで、モザイクが上手くなるうんぬんよりも、創作活動に欠かせない洞察力、観察力、想像力の話だけでも十分な人なんだけれど、ここが大事なのね。さっきのみどりはプロとしてモザイクで仕事がしたい人になる。班長は完全なる趣味。
この大きな違いで考えたら、いくら向上しても終わりが無いプロと、趣味ならこれが完成したら十分じゃないの?って感じで、もはや趣味には見えない・・・とでは全く意味が違う話なのね。更に言えば、班長1人の問題に切り替えたとしても、いかに上手くなったか?を話すのに、こんなのはどう?
以前は仕事に生かしたい・・・・としてここに来ていた。今は完全なる趣味。では折角相席なんだから、弟子のみどりに表現して貰おうかね・・・。
ねぇ、この作品完成したらどんな感じ?・・・・凄いと思います・・・・って。そうなんだぁ・・・・凄いのね・・・なるほど。
だってさ・・・・って班長に言うと、アトリエ内にはかぐやとみどりの作品があって、そんな中なんで恐縮ありきなのかも知れないが、そうですかねぇ・・・・って本人は全くそんな気が無い。けれど、もう一回確認をして貰う為に、でもみどりってその不死鳥作った人だよ・・・って言うと、
凄いですよね・・・・って。ここ。つまり不死鳥は凄くて、みどりはそれより見劣りするから説得力が乏しくなる。これが作品に見合った自分になると、かぐやのようにkameyaさんでのエピソードで、先生に褒められるよりも嬉しい・・・・なんて事になる。
つまり何がどう凄いのか?って説明不足だと思うのね。そこで少なくとも不死鳥作った人が凄いって判断したんだよ・・・って念を押すと、そうなのかなぁ・・・・ってやや自覚しようかな?くらいにはなって来る。ただね、大事なのは仕事に生かそうって時は自宅でもやっていたのね。
けれど今は完全なる趣味でアトリエのみ。じゃこれが完成したら見比べると良いのね・・・・どっちが上手い作品に見えるか?自宅でもやって仕事に生かそうって言うのと、完全なる趣味・・・・比べるまでも無く以前の方がやる気があったように感じるでしょ?
でもね、そうじゃないのね。今の方が完全に上手く見える作品になる。何故か?そこに秘密があって、昔は言葉にすると仕事、やる気みたいなものがあるように聞こえるが、実は今よりも信頼感に欠けていたと思うのね。けれどモザイクの時間は多かったって話。
では今は?となると、モザイクをやらなくてもここに来る・・・って言っているくらいだから、あの時よりも信頼感が違う。ただモザイクの時間は短い・・・・なのに。要するに技術って言うのはこんなもんなのね。辞めないで続ければある程度身に付くものなのね。
そうなると大事になるのは、それを生かす目だったり、先を読む想像力だったり・・・ほら、今の班長はそれを習いに来ているようなもの・・・。
だもの、腕と目のバランスが良くなったって事なのね。つまりバランスが良いから困る事が少ないって話。
ではみどりは?・・・・モザイクの技術が向上した分、それに見合った目で無いって事になる。とてもバランスが悪くなっているって事なのね。
いかにその技術に見合った自分が作れるか?になる。ただねぇ・・・腕が上がったってのは厄介な話でね・・・上手くなると、少しのアドバイスで、
まるで自分が是正した気になる。それが親子の関係なら、判ってるよっ・・・・ってあのセリフ。本来判っている奴はやらないものであって、判らないから言われているし、今やろうとしていた・・・・って言われるのは、教える側の我慢の無さか、教わる方のモタモタ感なのか?判らないが、
いずれにせよ、今のみどりはそんな感じにはなって来た。そうね・・・ある意味、カルビと班長にはさまれた相席・・・みどりには良い勉強になるのだけれど・・・・その意味が判るかなぁ・・・・みどりに・・・。
ヒントは弟子の自覚があったか?・・・・3人の中で一番上手い人である・・・・って言うね・・・・もし2人と同じスタンスだったとしたら、一番下だった事になる・・・・自覚って技術だけじゃないって事なのね。ペンキの色なんて上っ面な事では無くて、本質を盗んで欲しいものである。